大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年09月29日(火)
対象化できない自我(実存)に覚醒することだけが気分であるなら、そうした先理解(実存論)では、気分それ自体を先把握(存在論)できない。先行する気分は、単に実存論的問題ではなく、そうした先行関係自体の時間論だ。こうした反論が、冒頭で言えば最近ではアカデミズムを構成している。
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posted at 11:32:52
デカルトの我を先理解として、それに覚醒する実存(ヤスパース)というだけでは、講壇哲学の轍を踏むだけだ、というのがハイデガーの主張のはずだが、自我が対象ではないという先理解は、日本の悪しき本覚思想を持ち出すまでもなく、単に自明であり、先理解=気分ではない、ということになる。
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posted at 11:15:59
ところで、日本ではデカルトの思惟、対象化されない思い=気分の覚醒ばかりが語られる。しかしハイデガーがヤスパースを批判するように、覚醒した気分だけでは、永遠時間という気分=先理解を払拭することはできない。それどころか、却ってそこへ逆行してしまう、ということなのだろう。
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posted at 11:05:14
どのぐらい重要かというと、教えることが食い扶持というのが、アカデミズムということなのだが、今日本にあるのは、教師稼業への風当たりなのだ。なぜそのような気分(先理解)になるのか、ということを概念化(理解)に齎す、形式的告示が不在である、ということが極めて危機的なことなのだ。
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posted at 10:32:41
ところで、ジャズというと実存哲学の気分を表現する音楽と語られたことがかつてあったのだが、ジャズもいまでは教える音楽、アカデミズムになった。哲学もハイデガーのように、気分を概念化することが権威になったのだ、この転回が極めて重要なのだ。
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posted at 10:28:25
つまり、概念化できない先理解(モヤモヤとした気分)に気づくだけでは、時間が永遠でないという理解の以前ということなのだ。端的に気づくだけでは、気づかないでいることと左程どかわらず、ハイデガーがヤスパースを批判したように、それは時間規定という理解に至らなければならないのだ。
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posted at 10:26:43
気分(自分を対象化や概念化できない、モヤモヤとしたもの)を、気づくだけで十分なのか、概念(理解)にもたらすことが重要なのか。この気分=先理解は、ヤスパースでは気づき、ハイデガーでは理解(時間は永遠でないという理解)となるのだ。
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posted at 10:24:09
これはどういうことかというと、自分をモノのように対象化しない実存は、気分でしかないのだから、それは概念(理解)ではなく、先理解(境地)だというだけでは(ヤスパース)、時間が永遠時間という先理解のままに留まる、ということなのだろう。
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posted at 10:18:44
というのは、気分(先理解)を概念(理解)にもたらすハイデガーの形式的告示だけが、永遠時間の問題を解決しているからなのだ。ヤスパースはハイデガーを批判したが、しかし気分は概念化できない、先理解は理解できない、という立場では、時間が永遠時間に退却するのだ。
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posted at 10:15:02
実存とは客体視しないこと、つまり自分をモノのように科学的に対象化しないことだが、講壇哲学はそれを対象化してきた。ヤスパースとハイデガーの有名な論争というのは、ハイデガーがその気分(先理解)までも、概念化(理解)しようとしてるではないか、という問題なのだが、そう単純ではない。
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posted at 10:13:13
ちなみに、形式的告示というハイデガーの方法は、先理解などという概念以前の段階を、概念という形式に齎すための過程のこと。つまり気分のことなのだが、概念化できていないことが、気分的にもやもやするのを、概念という形式にするよ、という宣言のことだ。
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posted at 10:07:57
教えなければ食い扶持にならないことをアカデミズムというのだが、哲学で、実存というのは主に、講壇哲学(教えるのを食い扶持にする哲学)を批判するために生じた、形式的告示である。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 10:07:20
2015年09月27日(日)
欧米ではソーカル事件(WIKIみてね)で、存在証明と分析哲学の欺瞞が茶化され、人文学の危機が先行したのだが、日本では今やっと人文学の危機がきている。他人を存在証明する分析などに現を抜かすからいけない。そういう化物を追い払う人文学がこれから現れてくるよ。@inja650rr
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posted at 12:38:22
そうそう。カルテジアン茶番劇場。存在証明で他人を見てしまう。紛れも無く信仰心が危機的ということだよね。@inja650rr 彼の時代とは異なり神への信仰心が薄くなった現代においても、未だ「デカルト茶番劇場」が続いている
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posted at 12:33:20
他人の心まで存在証明の問題にしてしまう頽落は、ハイデガーに遣り込められ、ウィーンや英米系の分析哲学に分派して、フランスのラカンに返ってきたのだ。それでソーカル事件でその欺瞞がバラされた。依然として存在証明との戦争が続いている。デカルトが克服しているのに。@inja650rr
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posted at 12:25:59
端的な話、方法とは思いやりのことだ、他人の心は存在証明できない、というような藁人形論法を懐疑することだからだ。存在証明は無限遡行だから懐疑する、そういう方法があったればこそ、どんな知識もものすこができる。それを怠ったら、妥協の態度表明ばかりになる。@inja650rr
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posted at 12:06:13
その中のこれは逆。メソッドというのは方法、つまり懐疑のことで、ノウハウつまり方法論のことではないよ。@inja650rr メソッドに従った読解では書物により心を豊かにすることは出来ないと思います。
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posted at 11:59:22
いつも twitter.com/sunamajiri/sta... 言っているように、コトバをモノの名前と信じるのは、霊魂の不滅を信じる信仰のことだ。それは存在を証明する経験の話。そうした宗教を教育に持ち込むと、解体されてしまうのだ、当然の帰結。@LitoSnowfield
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posted at 11:49:35
日本の教師が、ラカニアンに到るまで言語をモノの名前と信じる話しかできなくなったのは、カント~ヘーゲル~マルクスでは時間が永遠だからだよ。それを、そんなあほなといったのがハイデガーなんだが、そういう面倒臭い現象学の文を読めなくなったのだ。それが左傾化。@LitoSnowfield
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posted at 11:29:45
左傾化ということなんだが。中国では文革で知識人殺して、労働者量産したけど、日本の教師って戦後左傾化してるから、労働者しかつくれんからな。そこでは言語は物の名前なのだ。twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield
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posted at 11:27:28
命題的にあるのは、一つだけなのよ。言語はモノの名前か、そうでないかという。西欧で大学というのはそうでないという方をやるんだが、日本ではモノの名前と信じる方向に向かって、解体しちゃったぞ。それが日本の文系の解体議論だ。@LitoSnowfield
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posted at 11:26:40
FBでこれにコメしたけど、60年代は、民主主義をいう丸山眞男のような教師が、学生の敵だったんだが、いまでは教師と仲良しSNSが、権力を刺激しているのだから、危険極まりない。twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield
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posted at 11:23:31
興味をもつべきなのは、コトバはモノの名前かどうかという一点なのに、それに無関心になったのも、中国では文革だが、日本では教師が労働者しか産めず、いまでは学生運動も教師と生徒が一体だからな。twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield
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posted at 11:21:19
端的に、言語が物自体の名前だという議論は実体論なのであって、父の名前という換喩は、単純に神の隠喩であり、むしろ存在の証明のようなものだ。そうした議論によって、ハイデガーを退けたところで、彼らは一体何を得られるのだろう? pic.twitter.com/lMfy5anVbp
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posted at 00:11:41
柄谷行人がトランスクリティークで、カントの永遠時間に退却し、ハイデガーの有限時間を退けるのも、ラカンをカントに二重写しするからなのだが、本当に困ったものだ。(^-^)/ pic.twitter.com/NDELmLp8hB
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posted at 00:07:03
2015年09月26日(土)
とはいえ、『カントと動力学の問題』の菊池健三が彗眼なのは、時間規定がハイデガー的に有限(超越論的)であるからこそ現勢的という地平から、カントの潜勢的時間規定を捉え直している点だ。これでハイデガーが『カントと形而上学の問題』で提起した超越論的時間規定の問題が、全面的に解決している。
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posted at 22:42:05
もちろんこのことは、霊魂という規定名が、時間を永遠とする地盤の中でだけ通用する規定名で、時間自体を有限化する現象学においては、そのような根源規定の名称も不要化したという事態でしかない。これほど、ハイデガーはカントとは対照的だ。
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posted at 22:38:07
時間を永遠化させかねないカントのような規定の仕方では、霊魂が潜勢=非実体化するのに対して、ハイデガーのように時間を有限化する規定の仕方では、現勢化するはずの非実体の規定名が、それであるとはっきりと名指されない、という事態だ。
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posted at 22:36:05
とはいえ、ハイデガーが表明的でないことを、菊池はカント全集の動力学を頼りに語らせている。ハイデガーは時間を有限化しても霊魂の現勢を表明する徹底を得られていない。しかしカントでは時間の永遠化のために潜勢的霊魂の不滅が語られている。つまり、ハイデガーは現勢的時間を表明できていない。
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posted at 22:28:10
ここから、菊池健三『カントと動力学の問題』の、いわば思弁性が明らかになる。同書は、ハイデガー的な現勢的時間から、カントの潜勢的時間を捉えいてるのだが、それがいかに現勢的時間に転回するのかは、ハイデガーのように表明的(明示的)ではない。
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posted at 22:20:49
意識や自我(という規定の仕方)では、霊魂と時間を非実体と規定する徹底性が得られない。この霊魂と時間という根源規定の相剋は、菊池健三によるとカントは霊魂を潜勢させる永遠の時間という規定性。それに対して、ハイデガーは霊魂を現勢させる有限な時間の規定だ。
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posted at 22:20:35
(大幅増量)語りえないものは、非本来的な語りによって、語らされないものだ。ハイデガーが注目したカントの図式論、超越論的時間規定とは、時間が永遠という非本来になる時、本来の自由が語れない、という問題である。「私家版ハイ.. togetter.com/li/878618
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posted at 09:30:38
したがって、デカルトの方法的懐疑に呼応して、存在証明を保留することである、現勢的霊魂と有限な時間、あるいは人間を死力ではなく活力として語ることを、方法論化する。それがハイデガーのカント書までの、時間の再規定、つまり前メタ存在論となっているようだ。
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posted at 03:45:47
死力と活力、潜勢と現勢という、2つの様態なのだが、ハイデガーでは前者(死力と潜勢)は非本来的な時間に規定された語り方、後者(活力と現勢)が、語り方としての本来の時間だ、ということになるのだろう。ラテン語と違い各国語は、このように活力と現勢を本来的に語ることで、生成するという。
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posted at 03:43:30
これを霊魂という規定で語り直すと、霊魂を潜勢態として語るのでは、非本来的な語り方だということになる。それでは時間は眼前の永遠時間として規定されているので、霊魂は現勢できない。霊魂が現勢というのは本来的に語れるようになる、ということなので、国語が生成されていないということなのだ。
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posted at 03:40:16
~ラテン語からドイツ語などの近代国語の生成の根本問題と言われるものです。すなわち、デカルトの場合のフランス語や、ヴォルフのドイツ語のように、各国語というのは、存在を証明することを休戦する、という規約の要請に呼応している、ということなのだ。
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posted at 03:37:59
ところで、これは存在を証明するラテン語に対して、言語(観念)は単に規定(概念)である、という営みなのだが、アリストテレス霊魂論の規定を、人間の死力とする眼前時間という規定(霊魂の不滅)を、いかに非本来的な語りとして排除するか、というのは~
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posted at 03:36:31
この twitter.com/sunamajiri/sta... ように、霊魂を潜勢させる時間の規定である、永遠ないしは眼前という時間が、ハイデガーによって非本来の語り方として退けられ、本来的には霊魂は現勢的な自由意志とするのが、語りの姿だ、ということなのです。
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posted at 03:32:30
その結果として何が起るのかというと、自由意志が第一原因=神にしか想定されず、潜勢態でしかなかった霊魂が、現勢という態勢、つまり自由になる、ということで、それが語りとしての本来の姿だ、というのがハイデガーの主張のように読める、ということなのです。@aliceizer
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posted at 03:28:47
つまり、言い換えてみるならば、霊魂を不滅にするような潜勢という霊魂観(アリストテレスのカント的な規定の仕方)では、霊魂は眠ってるようなものなのです。自由も神の自由のことです。それでは語りとして非本来的ではない。そこでハイデガーでは時間が永遠でなくなる。@aliceizer
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posted at 03:26:30
ちょっと言い直しておくと、今トゥギャッターのタイトルに反映させましたが、潜勢を現勢することです。カントでは霊魂は潜勢だが、それでは時間規定は永遠になってしまう。なぜなら霊魂が不滅だからなのだが。それを非本来的な語り方とするハイデガーでは霊魂は現勢です。@aliceizer
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posted at 03:25:04
存在を証明するラテン語に対して、言語(観念)は単に規定(概念)である、という営みである。アリストテレス霊魂論の規定から、人間を死力にすることなく、活力としての人間を見出すための語りを、どうやって得るのか、という方法論.. togetter.com/li/878618
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posted at 03:09:28
カントが時間を潜勢した霊魂の不滅として語るために、ヘーゲルは眼前時間と神をマルクスは時間の永遠と人間の無力を語る。それを非本来的なお喋りとするハイデガーは存在の不証明を要請したデカルトに応えて、時間を有限と規定し直し人間の有力を語る。 pic.twitter.com/DO6T8vEvHa
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posted at 02:28:04
ここから判るように、マルクスは人間を有力視する時間性を語れていない、というのがハイデガーの最も重要な問題のように思われる。永遠の時間を語る馬鹿者は、存在証明と因果律という非本来的なお喋りに頽落しているのだ。それが無力な人間ということになってしまう。
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posted at 01:56:24
恐らく、このようにマルクスの人間観と対比すると、ハイデガーのいう時間というのは金言(アフォリズム)のようになってしまう。時間を永遠と捉えれば人間は無力だが、ハイデガーでは時間が有限なので、人間が文字通りの有力になってしまうのだ。このことの重要性は計り知れない。
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posted at 01:52:13
ハイデガーの言う時間というのは、時間は他我が共有する永遠や無限ではない、ということに尽きるのだが、たとえばマルクス twitter.com/karlmarxbot001... では、時間は無限だが人間は無力なのだ。ハイデガーでは時間は有限だが人間は有力なのだ。
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posted at 01:45:45
これは簡単な話で、人が神のような存在を証明できない、という規約を完全に樹立し、規約が生じるということは、それがデカルトの要請以上に、厳密に共有できる論理性が生じるという話なのだ。
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posted at 01:30:23
『存在と時間』でヘーゲル(の眼前の今という点、としての時間概念)を退けても、まだ時間が完全に規定性となっておらず、カント書において、存在を証明しないための規定が、カントに戻って完全に反論されてからは、メタ存在論に転回するのだ。
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posted at 01:28:24
要するに、存在を証明するな、というデカルト的な格律を、ハイデガーだけが厳格に遵守している、ということなのだ。カントですら、時間を規定しても、ヘーゲルに移行=眼前時間を語らせてしまう。それは存在証明が残存しているからで、完全な規定性になっていない。
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posted at 01:24:52
ハイデガーは最終的にカントの時間を切り捨てるのだが、カントでも時間は完全に規定性の問題になりきれていない。規定というのは、存在を証明しないための約束事ということなのだが、カントでは時間という規定も、非実体の存在不証明の規定として完全化していない、というのがハイデガー。
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posted at 01:22:34
カントでは、霊魂という非実体の規定は、実体的な脳への潜勢、平たく言えばカントは一貫して、霊魂が身体に宿る、と考えるのだが、その矛盾が晩年に噴出していて、それが移行とかエーテルの問題になる。おそらくハイデガーはそれをヘーゲルに見ている。
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posted at 01:19:41
『存在と時間』第82節で、ヘーゲルの眼前時間は、止揚=移行の問題というのも、蛇足すると菊池健三が指摘する晩年のカントのエーテルへの移行の問題で、おそらくハイデガーはそうした実体概念自体を、退けようとしている。これについて少し考える。
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posted at 01:17:49
ここ twitter.com/sunamajiri/sta... で言っていることも、弁証法はカントの言う規定の問題を誤解している、というハイデガーの反論なのだ。ヘーゲル的に時間を眼前に止揚することは、カントの規定に矛盾して、ラテン的な非実体の存在証明という矛盾律に陥っているという。
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posted at 01:15:26
存在を証明と捉えるラテン語に対して、カントは非ラテン語的に、実体とは単に言葉の約束事、規定性(根拠律)の問題であり、非実体を実体として証明することは独断だとするんだけど、それを規定性と思わない人他、依然として非実体の存在証明を行うのが矛盾律の問題なのだ。@inja650rr
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posted at 01:13:28
経験が存在証明だ、という古びた命題に固執して、聞く耳を持たない、経験に微睡む人間がいることが、私には到底容認出来ない、最も腹立たしいことなのだ。すこし感情的になるのは、私がいま空腹だからで、これからお弁当を食らうので、お許し願いたい。(^-^)/
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posted at 00:21:58
それは元の話に戻れば、端的に、他人の経験は存在証明できないのだから、思いやる必要もない、という現代日本に蔓延している雰囲気のようなもののことで、その想像力の欠如は、単に罪ということであるに過ぎない。いわゆる弁証法は、ハイデガーによれば罪ということになるのだ。
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posted at 00:14:16
このことでハイデガーは、眼前時間=点性ないしは質点を齎す弁証法を、頽落した存在証明と退けているのであり、時間はハイデガーが言うように弁証法的な眼前性(今という眼前の点)ではない。ここまでやっても、まだ存在を証明できると独断するならば、それは神を畏れないということだろう。
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posted at 00:10:42
存在は証明できないというのは、単に弁証法ではない。ハイデガーはヘーゲルが、空間は時間であるとする、否定の否定、止揚のことである点性を、時間としては眼前時間であり、カントがニュートンの質点を動力学で退け、移行と潜勢の命題としたことに重ねる(存在と時間第82節)。
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posted at 00:07:31