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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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  • 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
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2015年11月09日(月)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

重要なのは、人間は啓蒙によって人間になること(タブラ・ラサ)ではなく、世界内存在=世界によってアプリオリに人間であることだ、という時間規定による同一性=真理を明言することなのです。だからカント書に至るハイデガーのシェラー批判は、教育哲学の再編成の話なのです。@BeTakada

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posted at 16:09:43

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

ライプニッツ講義では、前半でマックスシェラー急逝を学生に嘆く件があるが、シェラーは人間を世界ではなく人格にする通俗的時間規定だと一蹴されている。twitter.com/sunamajiri/sta... カント書はシェラー批判から、カントの人間規定を一蹴している。@BeTakada

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posted at 16:06:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

マックスシェラーは、日本では教育哲学です。ハイデガーはヤスパースの世界観の心理学を批判し、フッサールの様相的還元の自我論を批判し、最後にマックスシェラーを批判することで、根源規定の予備学を、ライプニッツ講義~カント書の本質連関の問題として明記できたのです。@BeTakada

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posted at 16:01:21

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

ハイデガーのカント書までの真理=同一性とは、根源を点ではなく時間と規定すれば、世界は人間のアプリオリ、世界内存在であり、人間は有限な実存から世界を有限化できる、という真理観です。面白いのはマックスシェラーを批判することで、それが興っていること。@BeTakada

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posted at 15:59:27

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

たとえば、日本では旧来の学校概念で、真理概念である、1+1=2という算数から始まる。しかし判明な真理とは根源の規定(予備学=形而上学)だから、まずは人間はタブラ・ラサ(白紙)ではなく世界だ、という超越を前提として、学校概念を再構築するとい話。@BeTakada

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posted at 15:57:57

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

これは、先学問性の学校化という転換の話なのでしょう。従来の学校(カントの学校概念)は、人間になることを扱うが、現代では、すでに人間であること、人間が世界であること、つまり世界内存在であること、という超越を前提することが、学校的なのです。@BeTakada

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posted at 15:53:46

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

ちなみに、全体における存在者に被投する現存在(人間=世界内存在)が有限的だから、存在者の全体(自然の総体)も無限ではない、端的に被造世界ではない、という語り方=企投が、時間という根源規定により基礎づけられたということなのだが、これは直観的にもしっくりくる。@BeTakada

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posted at 15:31:12

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

それが、GA3カント書 twitter.com/sunamajiri/sta... の、人間とは時間であるという規定で、現存在の有限性から、存在者一般(全体としての存在者)、つまりテンポラリテートの有限性を規定し直す語りの発明学、つまり転回になっていく。@BeTakada

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posted at 15:27:23

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

このように、ハイデガーの範疇論で重要なのは、旧来は形而上学にあった無限後退(点を証明するような無規定の形而上学が、理論や実践に堂々めぐりすること)が、根源を点ではなく時間と規定することで、形而上学が無限後退ではなくなる、いわば図式論を指している。@BeTakada

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posted at 15:23:00

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

哲学は世界のこと(予め人間であること)で、世界観(人間になること)ではない、というのは微妙な問題に聴こえるが決定的に違う。世界=人間を対象化すると世界=人間が方法化せず、方法論や理論理性、実践理性と堂々めぐりする。@BeTakada pic.twitter.com/SRGLQ64HSJ

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posted at 15:14:08

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

何の規則かというと、哲学を語りにならしめる規則=方法自体のこと。たとえば、GA26-218-239 bit.ly/1LYsotS に上流階級の世界とか、高級ホテルの世界、など世界を予め前提する語り方が哲学で、人間を対象化する世界観の学ではない。@BeTakada

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posted at 15:08:34

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

つまり、あらゆる困難とは、哲学とは点ではなく方法のことだが、自我のように人間を規定=一般化するのは非方法的で非哲学的(な語り方)だ、ということ。方法は人間を延長=対象化させる自我を規定とせず、世界と規定させる時間を規定にした語りでなければならない、という規則。@BeTakada

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posted at 15:02:51

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

困難 twitter.com/sunamajiri/sta... というのは、人間を非方法として、自我などの何であるか=対象や延長と規定=一般化する、その非世界性=非超越性が、非哲学的だという困難のこと。GA26-229 @BeTakada pic.twitter.com/SV5zmmKKqp

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posted at 14:58:52

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

たとえば、哲学にとって世界は、予備学である根源規定によって、先行するもの、つまり人間のことです。だからたとえば趣味の世界を哲学できる。それに対して、世界観や認識論は基礎づけられていない思弁であり、理論理性でも実践理性でも判明な本質を語れていない、というように。@BeTakada

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posted at 14:56:48

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

では、予備学(本質連関の判明な基礎づけ=真理)に対する応用=哲学とは何かというと、本質連関が基礎づけられた判明な根源規定により語りそのものに同一化する(徹するということなんです。たとえば~ @BeTakada

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posted at 14:56:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

要するに本質連関ということなのだが、規定を問題にする予備学(形而上学)というのは、本質連関を判明にする論理性のことです。明証性というのは、そういうことでしかない。たとえば延長=点として自我を対象化するのは本質連関的に判明ではない(基礎づけられていない)云々。@BeTakada

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posted at 14:56:15

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

端的にGA26 twitter.com/sunamajiri/sta... のとおり、明証とは問題の規定を判明にする論理学~予備学のことで、自我や点を実体化させる規定の曖昧を批判=超越論することです。@BeTakada その予備学「人間=社会」を「如何に」して規定出来るのか求めている本質は

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posted at 14:56:02

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

GA26は通称ライプニッツ講義、最近研究者が注目するテクストです。私が最先端のGA26論と思っている丸山文隆氏の論文だと、www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf... 文末にあるように、事象性とはその先です。@BeTakada pic.twitter.com/pVWQ0hw3lo

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posted at 14:15:52

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

なお頁数は、GA26-218-239 bit.ly/1LYsotS というように、日本語版のページ上部の独語版頁数が世界標準です。ハイデガーは従来の単著的受容から、全集的な受容に大転換して、ハイデガー像が大きく塗り変わりつつあります。@BeTakada

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posted at 14:10:48

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

だからハイデガー全集GA26巻です。www.amazon.co.jp/%E8%AB%96%E7%9... なおテクスト的なレスは、できるだけスレッドの末尾にお願いします。@BeTakada 先生、このテクストの著者名を教えて頂いてもよろしいでしょうか。253頁以降が読みたくて探してみようと思います。

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posted at 14:04:34

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

それは、本来性である世界=超越=人間という根源の規定から目を逸らしていたい人たちの文字通り非本来的な言葉の方が耳障りがよく売れるので、安い本がいっぱい書かれるということなのでしょう。私は哲学ではなく読書術だけに関心があるが、その点からもそう言えます。@sunamajiri

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posted at 02:09:15

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

世界とは人間を何かと問わない超越のことだという一点で、さほど困難な話題ではないのだが、それを端的に問題にしている肝心な書物は高価ですね。それを捉え違えたディレッタントの本は安価ですが。@sunamajiri 私がカント全集で戻りたかった所です!高い本だなぁと思っていて助かります

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posted at 02:05:28

2015年11月08日(日)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

世界内存在=超越が先行する=根源時間であることで、人間は方法=如何にかを、自由に遂行できるのだが、それは先学問性=超越や世界を、方法化=学問化すること。それは人間が何かではなく、方法=超越=世界内存在であり、タブラ・ラサではないということ。

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posted at 14:56:33

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

カント書第四章(回復による形而上学の基礎づけ)とは、カントの人間とは何か、というデカルト的延長を払拭し、人間=世界とは如何にか、という根源時間(カント書第三章)に規定しなおす方法的遂行。時間を根源化しない方法は潜勢的だが、方法を現勢化する規定は根源時間だ、とされる。

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posted at 14:52:41

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

デカルト以後の形而上学の非本来化によって、最も顕著だったのが時間の眼前(直前)化、つまり対象時間化であり、そうした時間規定は根源的ではないので、テンポラリテート=存在者一般とか、存在者の全体の時間性が有限化せず、全体における存在者=被投性を企投できなくなる。

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posted at 14:44:11

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

要約すれば、人間は自ら世界というように、人間はモノのような対象ではなく方法であるのだが、デカルト~カントまでの方法的不徹底が、人間をモノ(霊魂や実体)に潜勢させてしまった。それを超越するのは如何なる方法か、とハイデガーは問うている。

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posted at 14:41:34

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

現実存在を系列に対する様態にしたカントの不徹底が、このハイデガーによるGA26(ライプニッツ講義書)のカント批判の趣旨。bit.ly/1PuDaKR 『カント書』では図式論から、この問題がすべて払拭されている。つまり人間は何かではなく、如何にか=方法になる。

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posted at 14:16:53

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

要するに、デカルトの懐疑的不徹底である「延長」の形而上学性=眼前存在がハイデガーのいう非本来的形而上学。言い換えると心身二元論=潜勢性のこと。古代から中世までは世界=人間は現実存在のこと。カントでは「系列」に対する「現実存在の様態」に辛うじてなっているが、不徹底がある。

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posted at 14:16:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

ざっくりいうと、中世まではむしろ、人間という世界は、現勢のことで、潜勢を指していない。それがライプニッツ~バウムガルテンから潜勢を指してしまい、カントが潜勢を現勢に払拭できなかった、というのが厳密な意味でのハイデガーの非本来的形而上学という批判なのだ。

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posted at 14:16:13

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

要は先学問性を学問論することだけが、方法的懐疑の不徹底を除去するという話なのだが、不徹底とか非本来性というのは、世界=如何にでしかない人間を、モノ(延長)のように何かと、と問う近代形而上学の堕落のこと。中世までは寧ろそれがなかった。bit.ly/1LYsotS

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posted at 14:15:59

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

余談だが、だから端的に日本人が形而上学はダメだ、という言い方をするときの非本来の形而上学は、ハイデガーではライプニッツ~バウムガルテンが覆い、カントが払拭し切れなかったもののことを指すので、古代のことでも中世(神学)のことでもない。如何にを何かに変えてしまったことが非本来性。

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posted at 13:53:08

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

そしてハイデガーの言う本来的形而上学というのは、人間とは何かという非本来的な問(ライプニッツ~バウムガルテンが覆い、カントが払拭できなかった問)に対して、人間は世界だから如何にかだ、という本来性のこと。ハイデガーはこればかり言う。 pic.twitter.com/cUZesmvEh6

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posted at 13:44:11

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

人間は世界だからこそ、何かではなく如何にかだ、というハイデガーのカント批判は、カント書第四章で完成しているのだが、『カントの動力学の問題』の菊池健三だと、動力学はこの命題を度外視することだ、と扱うのでハイデガーと好対照。bit.ly/1iLVC5q

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posted at 13:42:07

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

人間という世界は如何にか、というのが本来の形而上学で、人間とは何かというのは、近世の形而上学の覆いだ、というのはハイデガーがカント書に到るまで繰り返すことなのだが、昨日の箇所では画像。カント書第四章ではこれが書き換えられる。 pic.twitter.com/236VLiH3lZ

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posted at 13:37:39

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

なお、先学問性=超越の時間性、というライプニッツ講義~カント書に至るハイデガーの問題は、テクスチュアルには、東大の丸山文隆のテクスト研究 twitter.com/sunamajiri/sta... が、おそらく世界最先端だと思う。私はそれを平たく言い換えているだけなのだが。@BeTakada

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posted at 00:25:06

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

平たく言えば、人間を学問するまでマッサラ(タブラ・ラサ)と規定しないこと、つまり先学問性こそ超越ということなのだが、それ(超越)を時間の根源規定にすることを、真理だといっているのだが、そこにたどり着くまでが偉く大変なのだ。別に難しい話ではないのにね。@BeTakada

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posted at 00:20:47

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

『カント書』は twitter.com/sunamajiri/sta... のとおり、カント『論理学』のいう第四テーゼ人間学を、人間とは何か(動力学?)ではなく、人間とはいかにして人間か、という超越や先学問性の根拠=根源規定を真理として与えるのだが、それの前哨部分。@BeTakada

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posted at 00:18:25

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

GA26は通称ライプニッツ講義だが、ライプニッツの矛盾律は同一律=真理からすれば根拠律ですらない、という前半はつまらず、時間=超越という同一律=真理が、規則の根源規定だというのが、いわば『存在と時間』未完部分を補う『カント書』への序章部分。@BeTakada

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posted at 00:14:55

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

実存より先行=超越する世界=コスモスとは、自然のことというよりは、人間とはいかにして人間かという、現実存在のことだ、というのは、bit.ly/1LYsotS の前半。後半は善のイデアはイデア=観ること(直感~認識論)ではない、という話。@BeTakada

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posted at 00:10:13

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