大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年11月07日(土)
その前後の文脈 GA26-218-239 bit.ly/1LYsotS で、実存どころか実践より、世界や自由が先行=超越する、という先学問性は形而上学的(おそらく動力学的)にしか学問的方法=懐疑とならないという文脈。@BeTakada
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posted at 23:51:32
私が病院ベッドで寝れなくなった(テクスト的にややこしいという意味で)と言ったのは、GA26の226-229 bit.ly/1PuDaKR のカントの世界と自然。数学的と力学的が動力学的=超越論的にわからなくなる箇所だが~ @BeTakada
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posted at 23:51:19
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2015年11月06日(金)
つまり、デカルトの物体は延長だ、という方法が神を要請してしまうのに対して、神観念要請を不要化する方法自体を記述すると、予め人間であること、という根源的な先行関係に見えるようになり、そこからは世界=コスモス=人類の時間的有限が見える、ということらしい。@inja650rr
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posted at 13:21:10
それはいい表現だね。ハイデガーが神を必要としないことを、方法として模索するのは、それに近いんだろうね。@inja650rr カントの場合は「神により与えられた権利」を保護しながら解説を試みたが、ハイデガーの場合は「神により与えられた権利」を解き明かしてしまう事を目的としたと解釈
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posted at 13:13:36
例えば、実存が事実的だから世界を得るでは、物体は延長だという非時間性と同じで、超越は先行関係に超出しない。その旧来性に対して、予め世界ー内ー存在が根本体制だから実存できるという言い方=言挙げの方がベターだという。@BeTakada pic.twitter.com/y52x1gNHVF
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posted at 08:43:00
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2015年11月05日(木)
眼前存在者が有限であるばかりか、存在者の全体も有限だ、つまり無限など無いという謂が、最も困難な個所なのだが。@BeTakada @inja650rr pic.twitter.com/drJhakBtc9
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posted at 17:22:28
その点で、形而上学を神学的に捉えがちな非西欧的な日本では、第一哲学と神学に分解される旧来の形而上学から、ハイデガーの基礎存在論とメタ存在論に分解される形而上学的転回が、カンフル剤のように、譬喩(現存在を動物に譬えたりすること)の問題を解体してしまうのだろう。@inja650rr
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posted at 09:07:28
それは旧来の形而上学、あるいは譬喩が隠蔽してしまう存在論的差異を実存分析によって取り戻し、現存在の有限性から、存在者一般=宇宙の総体の有限性=テンポラリテートを取り戻すようなこと。だから形而上学的転回は、永遠性のようなものを、払拭してしまうのだ。@inja650rr
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posted at 08:57:26
要するにハイデガーがいう転回というのは、第一哲学と神学に分解される西欧の旧来の形而上学が齎す、認識論を含めた全てのもの(対象性)、あるいは譬喩から、時間性という根源に形而上学を折返し=転回すること。それは〜 @inja650rr
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posted at 08:53:39
時間根源に抗うのが対象化、つまりメタファー。モノ化する譬え、人間を動物にモノのように譬えることも、ハイデガーからは、実存を分析させない旧来の形而上学。転回とは不徹底な形而上学が齎す不用意な比喩を払拭すること。@inja650rr pic.twitter.com/VNzgIBSlLA
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posted at 08:49:36
2015年11月04日(水)
そうそう。方法と方法論の差異以上に、とくに新カント派 twitter.com/sunamajiri/sta... に至って、認識論を心的実在論のように形而上学化させることを、ハイデガーは批判哲学=超越論してるだけだからね。togetter.com/li/891272 @inja650rr
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posted at 15:08:02
そこでは、その譬えも厳粛に禁止される。twitter.com/inja650rr/stat... 要するに現存在は、自分の眼前に空間的に対象化=延長された時間ではない、という規則からは、人間を何らかなモノやその機能に喩えることが、まさに形而上学的として退けられるのだ。@inja650rr
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posted at 14:55:13
要するに世界が永遠に実在するという幻想に対して、現実にそれが世界となるのは有限な時間の出来事で、それを譬喩として語れば、また永遠時間という無規定に堕落するので、厳粛に譬喩を規律に置き換えるべき、という話なのだ。彼が批判するのは、それを怠る言表者なのだ。@inja650rr
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posted at 14:48:28
ハイデガーの批判は、デカルト的方法をカント主義者が方法論に頽落させることへの批判だが、それを言い当てる存在論的差異はこの要約のとおり、驚くほどのこともない。@inja650rr pic.twitter.com/XsWK3U1L73
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posted at 14:43:59
仏教徒のように譬喩を語るのか、契約(命令)を規則化するのかの違いでしかないが、デカルト的方法以後、存在論そのものが徹底されるというのはハイデガーのいう存在論的差異の問題だから不可避なのだろう。続 @inja650rr pic.twitter.com/fcYFgNVc70
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posted at 14:38:07
@sunamajiri 御釈迦様は自らの至った境地を、経典に記さず、喩えを駆使して対機説法をしていたとされます。
この非言明の態度にむしろ私には賢者としての思慮深さを感じます。
それは真理を語らず方法を語ったデカルトと実に似ているように感じるのです。
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posted at 14:22:18
ちなみに、認識論なのか存在論なのか、いやメタ存在論でフルーム問題とはおさらばよ、というのはたとえばハイデガーのGA26-190-191のような語り方になるのだが。@inja650rr pic.twitter.com/Elesah8vFA
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posted at 14:09:56
仏教徒の落ち度があるとすれば、それは端的に譬喩や方便としてしか契約を語れないことなのだが、西欧では存在論が認識論のような不徹底に至ったことが、却って一元論への決定的契機となったのだろう。それを侮ることは、仏教的にも愚かさを表す譬喩となるしかない。@inja650rr
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posted at 11:35:55
それが動力学では潜勢する自由運動というカント以来の実践に対する、西欧の再セム化、実践の良心への一元化という、彼らの言う契約の文言なのだ。この実践を、今では実存というだけのことだ。twitter.com/kikuchi_8/stat... @inja650rr
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posted at 11:33:06
まさにね。その際、毒矢の喩え twitter.com/inja650rr/stat... と同じだが、量子論に回帰する西欧近代思想を、存在論の不徹底としての認識論で語ることに対して、ハイデガーのように形而上学の根源から語ることで、毒である不徹底を除去できるのだけどね。@inja650rr
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posted at 11:22:05