大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年11月22日(日)
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タカ基地さんはGA26-218-239 bit.ly/1LYsotS の「世界がコスモスであるのは人間が方法であったことだ」から GA26-238~253「自由と世界」bit.ly/1MIQDcO の「世界は無だ」を捉えて~ @BeTakada
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posted at 23:18:45
丸山文隆の、メタ存在論は領域存在論ではなく、基礎存在論の内的必然性としての、日常的存在了解の脱領域化か、本来的存在了解だ、という立論について、私も解釈の途上ですが、twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada
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posted at 23:17:51
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2015年11月21日(土)
こちらで言及 twitter.com/sunamajiri/sta... したが、コスモスが世界という人間の方法だった、という本来の形而上学からは、宇宙や自然という形而下に、巨視的な神の視点などなく、身近な素粒子でそれが分かる、というのと同じようなことですよ。@BeTakada
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posted at 20:31:17
丸山結論部は、このスレ twitter.com/sunamajiri/sta... で解釈してあります。日常を領域化した基礎存在論を脱領域化すると、眼前時間に即自(時間自体)から脱自時間(間接時間ですね)になるというのが次節です。@BeTakada
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posted at 20:25:18
丸山最後の段落が言及するGA21は未読ですが、アマゾンレビューがこんな構図を語っています。カント書からもそれは窺えます。www.amazon.co.jp/review/R3RPJIF... つまり前にも言いましたが弁証法的な時間規定では即自=対象的だ、ということです。@BeTakada
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posted at 20:19:36
だから、たとえばタカ基地さん twitter.com/sunamajiri/sta... のように、ビッグバンだとか宇宙以前の第一原因だとか、宇宙論をするような非日常性というのは、実在論という非本来的形而上学が作り出した領域=対象=仮象だ、という意味ね。@inja650rr
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posted at 19:10:09
むしろそういうことではなく、本来的形而上学というのは、非本来的に中世までは、宇宙というと神の視点になってしまっていたが、素粒子のようにそれはごく身近な形而下だ、というようなことね。それ以上でも以下でもない。twitter.com/sunamajiri/sta... @inja650rr
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posted at 19:07:55
非本来的形而上学がもたらす実在論では、疎外や宗教が起こってしまう、というのはそのとおりだからだ。twitter.com/sunamajiri/sta... @inja650rr
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posted at 19:05:57
現代において形而上学というのは聴こえが悪いが、ハイデガーにとってはそれが非本来的な形而上学、つまり実在論のことだ、というのに注意しないと、単なる宗教になるよ。twitter.com/BeTakada/statu... @inja650rr pic.twitter.com/YDmLhSvF4V
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posted at 19:05:30
それは非本来的形而上学において、形而上に領域化されてしまった日常を形而下に脱領域化するようなことに、最終的にはなるはずだ。つまり、形而下を脱領域化して形而上にすること、それが本来的存在了解である形而上学なのだろう。
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posted at 18:10:37
メタ存在論の内的必然性とは、「存在者の全体」=眼前存在としての現存在(いわば自己を全体像として対象認識=反省するようなこと)という事象性の矛盾から転回して、全体における存在者=非眼前存在者としての現存在の生起を語る、方法なのだ。 pic.twitter.com/tmQSyVD6PX
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posted at 18:00:15
日常に領域化する先存在論的存在了解では、デカルトのように我が素朴に実在しているだけであり、それは日常の脱領域という方法的懐疑を含んでいない。それゆえ内的必然的に日常自体(具体的には現存在の事実性)の脱領域が現存在を生起する方法自体だ、とハイデガーは言っているのだ。
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posted at 17:51:27
要するに、認識論=先存在論では、現存在は日常に領域化して生起しない。学的企投=基礎存在論では内的必然的に日常の脱領域化=メタ存在論が派生するというのは、現存在が実在的な領域を超越して生起するという意味だ。 pic.twitter.com/ZAF0FaVVQa
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posted at 17:46:44
先存在論的存在了解(つまりデカルト以来の諸科学的企投)では、現存在は日常性に領域化し埋没して生起しない。それに対して、日常を脱領域化するということは、埋没していた現存在が生起するということである。 pic.twitter.com/xrMZO5FEMf
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posted at 17:38:56
メタ存在論への内的必然的な転回なるものは、先存在論的存在了解である学的企投が、日常を領域化させてしまった基礎存在論を、脱領域化に転回させるということであり、むしろ日常が脱領域化するような存在了解、あるいは本来的形而上学なのだ。 pic.twitter.com/PDzl31kpkX
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posted at 17:35:06
昨晩注記 twitter.com/sunamajiri/sta... したように、宇宙という領域は近現代では、単純に形而下、あるいは科学的対象であり、それを捉え損なった旧来の形而上学を是正するものとしての、存在一般の意味というのは、領域存在論ではない、という意味だ。
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posted at 17:23:10
それゆえ、たとえば、タカ基地さんが事象性を、自然の非日常的領域化や宇宙論、あるいは形而下と実在論をするのは、おそらく内的必然性ではない。bit.ly/1PRTq8W twitter.com/BeTakada/statu...
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posted at 17:21:45
つまり、メタ存在論が、日常から自然や歴史を非日常として領域化するわけではない。そのような領域化が真の存在了解ではない、というのがメタ存在論の内的必然性であり、それが真に自然と歴史を日常化する、という意味では存在了解的なのだ。 pic.twitter.com/EAo6V9jjk5
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posted at 17:09:43
つまり、内的必然性が「自然を真に了解させる」わけでもない。そうではなく、自然と歴史を非日常と領域化させていた、そのことの破綻がメタ存在論への転回という内的必然性を孕んでいたというだけだ。 pic.twitter.com/D45mtrr4gM
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posted at 16:57:58
メタ存在論の用語、「全体における存在者」は「存在一般の意味への問い」が、自然や歴史を非日常に領域化させるのではなく、日常に領域統合するような意味で使われる。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 16:55:43
そして、丸山結論部の結論段落。内的必然性というと、「存在者の全体」を自然という領域と捉える認識のことと早計するのだが、そうではない。現存在を、万物のような眼前=全体ではなく、被投=方法として表明する必然性があるということだ。 pic.twitter.com/DjOKAmvbgW
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posted at 16:54:24
自然に埋没した眼前存在(存在者の全体)と、生起する場としての「全体における存在者」=現存在を弁別するのは、その生起を問題化するメタ存在論においてである。人間に存在了解を与え現存在にするのは、こうした未然性である。 pic.twitter.com/DAOYj7s2CH
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posted at 05:50:05
日常的存在了解が常に与えられているとする『存在と時間』の語り方では、現存在は眼前存在と見分けがつかない。つまり、基礎存在論は存在了解するものとしての現存在を判明に語っておらず、現存在を生起するものと語るメタ存在論は内的必然的だ。 pic.twitter.com/0xHKTpIhBC
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posted at 05:34:28
ドグマ的な読みでは、メタ存在論への転回は存在論の領域化、二重化のように解釈されるが、丸山の解釈では、基礎存在論=日常性や事実的実存は端的に先存在論的であるにすぎず、メタ存在論で語られる未然的現存在、つまり方法としての現存在こそが、本来的現存在である、とも取れよう。
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posted at 04:54:47
ここで言っていることを勘案すると、基礎存在論(存在と時間)が語る事実性・日常性の現存在では、デカルト以来の眼前存在と大差なく、先存在論(存在論未満)的で、事実性の現存在は、事実的眼前存在である自然への被投性として語られた時、本来的に形而上学を汲み尽くせる、わけだ。
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posted at 04:51:24
このように加速度的であるためか、丸山結論部は段落分けもないのだが、腑分けをしないと見通しづらい。便宜的に区切ったこの第一ブロックはGA26-199の紹介である。 pic.twitter.com/KVQClGbF3A
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posted at 01:52:33
丸山結論部は、GA26-199のテクスト解釈として、最も加速的な解釈である。というのは、大抵はドグマが引力となり、ハイデガーの言う内的必然性を、外的必然性に転倒して解釈するからだ。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 01:25:22
さて、このハイデガーの転回の内的必然性を、丸山論文 www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf... の結論部 bit.ly/1PNUJpn は、一気に駆け抜けようとしている。その速度は十分あるのか?
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posted at 01:20:28
このことは、このように一気に語れば十分に見通せることであるが、大抵は中断して見えなくなる。それが存在忘却、あるいはデカルト的な先存在了解、つまり実在論であるし、またその後の疎外論なのだろう。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 01:19:52
ハイデガーの言う存在了解とは、非本来的形而上学を前提とするデカルトの先存在論的日常的存在了解が、万物と混同させた存在一般の意味を、方法=本来的形而上学に取り戻すことだ。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 01:17:18