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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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  • 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
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2015年11月09日(月)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

世界とは人間を何かと問わない超越のことだという一点で、さほど困難な話題ではないのだが、それを端的に問題にしている肝心な書物は高価ですね。それを捉え違えたディレッタントの本は安価ですが。@sunamajiri 私がカント全集で戻りたかった所です!高い本だなぁと思っていて助かります

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posted at 02:05:28

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

それは、本来性である世界=超越=人間という根源の規定から目を逸らしていたい人たちの文字通り非本来的な言葉の方が耳障りがよく売れるので、安い本がいっぱい書かれるということなのでしょう。私は哲学ではなく読書術だけに関心があるが、その点からもそう言えます。@sunamajiri

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posted at 02:09:15

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

だからハイデガー全集GA26巻です。www.amazon.co.jp/%E8%AB%96%E7%9... なおテクスト的なレスは、できるだけスレッドの末尾にお願いします。@BeTakada 先生、このテクストの著者名を教えて頂いてもよろしいでしょうか。253頁以降が読みたくて探してみようと思います。

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posted at 14:04:34

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

なお頁数は、GA26-218-239 bit.ly/1LYsotS というように、日本語版のページ上部の独語版頁数が世界標準です。ハイデガーは従来の単著的受容から、全集的な受容に大転換して、ハイデガー像が大きく塗り変わりつつあります。@BeTakada

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posted at 14:10:48

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

GA26は通称ライプニッツ講義、最近研究者が注目するテクストです。私が最先端のGA26論と思っている丸山文隆氏の論文だと、www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf... 文末にあるように、事象性とはその先です。@BeTakada pic.twitter.com/pVWQ0hw3lo

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posted at 14:15:52

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

端的にGA26 twitter.com/sunamajiri/sta... のとおり、明証とは問題の規定を判明にする論理学~予備学のことで、自我や点を実体化させる規定の曖昧を批判=超越論することです。@BeTakada その予備学「人間=社会」を「如何に」して規定出来るのか求めている本質は

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posted at 14:56:02

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

要するに本質連関ということなのだが、規定を問題にする予備学(形而上学)というのは、本質連関を判明にする論理性のことです。明証性というのは、そういうことでしかない。たとえば延長=点として自我を対象化するのは本質連関的に判明ではない(基礎づけられていない)云々。@BeTakada

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posted at 14:56:15

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

では、予備学(本質連関の判明な基礎づけ=真理)に対する応用=哲学とは何かというと、本質連関が基礎づけられた判明な根源規定により語りそのものに同一化する(徹するということなんです。たとえば~ @BeTakada

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posted at 14:56:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

たとえば、哲学にとって世界は、予備学である根源規定によって、先行するもの、つまり人間のことです。だからたとえば趣味の世界を哲学できる。それに対して、世界観や認識論は基礎づけられていない思弁であり、理論理性でも実践理性でも判明な本質を語れていない、というように。@BeTakada

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posted at 14:56:48

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

困難 twitter.com/sunamajiri/sta... というのは、人間を非方法として、自我などの何であるか=対象や延長と規定=一般化する、その非世界性=非超越性が、非哲学的だという困難のこと。GA26-229 @BeTakada pic.twitter.com/SV5zmmKKqp

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posted at 14:58:52

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

つまり、あらゆる困難とは、哲学とは点ではなく方法のことだが、自我のように人間を規定=一般化するのは非方法的で非哲学的(な語り方)だ、ということ。方法は人間を延長=対象化させる自我を規定とせず、世界と規定させる時間を規定にした語りでなければならない、という規則。@BeTakada

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posted at 15:02:51

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

何の規則かというと、哲学を語りにならしめる規則=方法自体のこと。たとえば、GA26-218-239 bit.ly/1LYsotS に上流階級の世界とか、高級ホテルの世界、など世界を予め前提する語り方が哲学で、人間を対象化する世界観の学ではない。@BeTakada

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posted at 15:08:34

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

哲学は世界のこと(予め人間であること)で、世界観(人間になること)ではない、というのは微妙な問題に聴こえるが決定的に違う。世界=人間を対象化すると世界=人間が方法化せず、方法論や理論理性、実践理性と堂々めぐりする。@BeTakada pic.twitter.com/SRGLQ64HSJ

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posted at 15:14:08

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

このように、ハイデガーの範疇論で重要なのは、旧来は形而上学にあった無限後退(点を証明するような無規定の形而上学が、理論や実践に堂々めぐりすること)が、根源を点ではなく時間と規定することで、形而上学が無限後退ではなくなる、いわば図式論を指している。@BeTakada

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posted at 15:23:00

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

それが、GA3カント書 twitter.com/sunamajiri/sta... の、人間とは時間であるという規定で、現存在の有限性から、存在者一般(全体としての存在者)、つまりテンポラリテートの有限性を規定し直す語りの発明学、つまり転回になっていく。@BeTakada

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posted at 15:27:23

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

ちなみに、全体における存在者に被投する現存在(人間=世界内存在)が有限的だから、存在者の全体(自然の総体)も無限ではない、端的に被造世界ではない、という語り方=企投が、時間という根源規定により基礎づけられたということなのだが、これは直観的にもしっくりくる。@BeTakada

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posted at 15:31:12

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

これは、先学問性の学校化という転換の話なのでしょう。従来の学校(カントの学校概念)は、人間になることを扱うが、現代では、すでに人間であること、人間が世界であること、つまり世界内存在であること、という超越を前提することが、学校的なのです。@BeTakada

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posted at 15:53:46

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

たとえば、日本では旧来の学校概念で、真理概念である、1+1=2という算数から始まる。しかし判明な真理とは根源の規定(予備学=形而上学)だから、まずは人間はタブラ・ラサ(白紙)ではなく世界だ、という超越を前提として、学校概念を再構築するとい話。@BeTakada

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posted at 15:57:57

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

ハイデガーのカント書までの真理=同一性とは、根源を点ではなく時間と規定すれば、世界は人間のアプリオリ、世界内存在であり、人間は有限な実存から世界を有限化できる、という真理観です。面白いのはマックスシェラーを批判することで、それが興っていること。@BeTakada

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posted at 15:59:27

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

マックスシェラーは、日本では教育哲学です。ハイデガーはヤスパースの世界観の心理学を批判し、フッサールの様相的還元の自我論を批判し、最後にマックスシェラーを批判することで、根源規定の予備学を、ライプニッツ講義~カント書の本質連関の問題として明記できたのです。@BeTakada

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posted at 16:01:21

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

ライプニッツ講義では、前半でマックスシェラー急逝を学生に嘆く件があるが、シェラーは人間を世界ではなく人格にする通俗的時間規定だと一蹴されている。twitter.com/sunamajiri/sta... カント書はシェラー批判から、カントの人間規定を一蹴している。@BeTakada

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posted at 16:06:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月9日

重要なのは、人間は啓蒙によって人間になること(タブラ・ラサ)ではなく、世界内存在=世界によってアプリオリに人間であることだ、という時間規定による同一性=真理を明言することなのです。だからカント書に至るハイデガーのシェラー批判は、教育哲学の再編成の話なのです。@BeTakada

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posted at 16:09:43

2015年11月10日(火)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

ここのことですね。www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf... 同一の話題はなるべくスレ化してレスっていただけると助かります。@BeTakada pic.twitter.com/wUweq40uuV

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posted at 01:00:21

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

世界入場(進出)のGA26-238-252は、キルケゴールの単独者の実存も、それに対するブーバーの我と汝も、デカルト的要請から主観客観として自我を規定する独我論で、超越をエゴイズムと誤解している、という批判です。@BeTakada bit.ly/1WNYxHL

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posted at 13:19:39

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

説明が後付なのは、デカルト的要請の方です。そんな取り決めで形而上学を中立化することはできない。現存在が超越であるのは、人間同士の社会的取り決めではなく、中立的な形而上から捉えると、超越だけが先行しているという事態だ、というくだりです。@BeTakada

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posted at 13:21:27

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

とはいえ、この箇所で頻出する「中立的な形而上学」という言い方が、はるか前に登場していて、性別が分化する(異性がいる)のは、時間関係からみると、社会的に人間が取り決めたことではない、という部分でそれが言われているので、ハイデガーも巧くまとめているとは言いがたい。@BeTakada

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posted at 13:25:33

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

しかし、困難は個体発生と人類の発生の混同というよりも、手許性で全宇宙を先把握する先学問は、どう了解できるかということのようですね。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada 人間の起源と個の起源は異なる、という事。存在論を語る上で総じて其処が欠けている。

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posted at 13:34:35

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

世界入場(進出)は、カントの世界市民でも規定の不十分だという箇所なのだが、実はその次の箇所がもっと難問、無の時間に関して触れ始めるからなのだ。しかし、自己が他人でなく、他人も自己のように現存在=超越、というのは人間の取り決め=要請ではない、ということです。@BeTakada

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posted at 13:37:15

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

今、解釈したこと(形而上学的中立とは、我々による合意や認識というデカルト的要請より先なることで、それが存在者の存在を論じるということだ)を、GA26でテクスト的に明証すると、例えば bit.ly/1M3kGib と抜粋できます。@BeTakada

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posted at 14:09:08

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

この形而上学を中立化させると、先行するものは世界という超越だ、という先学問(先哲学)を如何に了解するか、という困難な問題を、丸山文隆の www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf... がどうテクスト的に扱っているのか、私も久しぶりに後刻再読して検証してみます。@BeTakada

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posted at 14:09:28

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

現勢を現勢と語らないこと=潜勢させること。それがカントの動力学と晩年のアストラル体の問題だ、というのが菊池健三『カントと動力学の問題』twitter.com/sunamajiri/sta... だが、それではシュタイナーだ。bit.ly/1M3lXpB

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posted at 14:28:33

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

要するに、カントの動力学~超越論を、潜勢した霊魂論と徹底させるとシュタイナー、霊魂の身体性以上の現勢としてフルに読むとハイデガーになる。どちらに徹底するかということで、じつは同じことを、ある意味同じように語っている。ただし結果は潜勢と現勢で大違いだが。

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posted at 14:30:14

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

同じこと(潜勢)を、同じように(潜勢性から)語るが、シュタイナーでは潜勢、ハイデガーでは現勢に、それぞれ徹底化されるというのも、シュタイナーではデカルト的不徹底ということに思えるのだが。twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 14:32:19

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

潜勢と現勢は、ネガツイ、ポジツイほどの違いなのだが。同様にショーペンハウアーは哲学談義の俗者だというのも、ショーペンハウアーが根拠律から扱う気分はネガティブ、ハイデガーはやたらとポジティブだからなのだが。つまり談義できるのは時間に関することだけなのだ。

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posted at 14:36:06

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

たとえば、ショーペンハウアーだと、虚栄心を言い当てていい気になるのだが、ハイデガーだと、感謝を言い当ててほっとするのだ。その違いは潜勢と現勢。つまりアリストテレスの霊魂規定を、葛藤と捉えるか、実践と両親の一元論と捉えるか、という地平の広さのちがいなのだ。器の大きさというか。

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posted at 14:41:17

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

葛藤すると潜勢(二元論)になりネガティブなことばかりが気になり始める。しかし、そうしたカルテジアンのようなものを払拭する器になるとき、ハイデガーのようにやたらとポジティブ(実践とは良心のことだ)という、カント批判になるのだろう。それは潜勢ではなく現勢的である。

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posted at 14:42:55

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

葛藤=潜勢=ネガティブとは、我々=社会が認識を取り決めているという器のこと。それに対して、現勢=ポジティブというのは、我々(社会)より先なること(いわば個人)がある、という予感=先学問性のこと。twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 14:50:03

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

一重にハイデガーの問題は、社会(我々の取り決め=デカルト的要請)より、先なることがある、という絶対的個人主義のこと。それは社会的に批判されるエゴイストに対する単独者という中途半端なものではない。twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 14:52:36

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

先日のハイデガーシンポで、ハイデガーが始まりでないと古代哲学者の神崎先生が、葛藤=二元論に対するセム=一元論のハイデガーにおける出現(実践の良心化)といったのは、そういうこと。twitter.com/sunamajiri/sta... つまり葛藤させる社会的取り決めを除去するということ。

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posted at 15:38:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

ただ、twitter.com/BeTakada/statu... の「(自己と非自己の分割は)どの時点か」は、地平のことです。「時点」では点時間的な弁証法的時間規定のように眼前(対象)的で、カント書では、超越論的時間地平(問いの時間化→問いを語れること)です。@BeTakada

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posted at 15:49:02

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

端的に、我々=社会が取り決めると、それは対象(延長や眼前)化されてしまうが、それより先であると、非対象性であり、それが語ることだということです。twitter.com/sunamajiri/sta... 丸山文隆氏の立論が語りになっているかは、もうちょっと見極めます。@BeTakada

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posted at 15:54:55

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

やはり、丸山文隆 www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf... で重要なのは、メタ存在論は実存が生起される以前の中立を存在論している、ということです。超越を生起する方法へ懐疑を徹底することです。@BeTakada pic.twitter.com/NglX8MSuQA

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posted at 18:59:40

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

『存在と時間』では現存在は実存として語られる。そのために未完化するのは必然的か、というのがハイデガーの内的必然性問題です。ポスト『存在と時間』である、GA26のメタ存在論=転回とは、方法的懐疑の徹底のことで、実存を生起する超越を、方法化することです。@BeTakada

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

『存在と時間』は、弁証法的時間規定では時間は点=無だが、問いを一点にすることである、時間という問いは有だ、という弁証法批判で終結するのだが、それをいうために、メタ存在論に至っていない、それが内的必然性問題です。@BeTakada

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posted at 19:00:33

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

一方、メタ存在論は、実存が生起していない中立を存在論している。それが、カント的企投=存在者の全体、に対する、ハイデガーのカント書の被投性テーゼ=全体における存在者への、内的必然的な転回だ、というのが、www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf... でしょう。@BeTakada

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

私から見ると、一般的に認識論的転回から転回することを言語論的転回というのだが、ハイデガーは存在論的差異や被投性のために、存在論的転回を行っている、ということなのです。それは人間を実存化させる超越を生起する方法を、明記することなのです。@BeTakada

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

それは、先ほど指摘した、我々が社会的に取り決めること(言語論的転回)の前 twitter.com/sunamajiri/sta... に、超越へ生起する方法がある、という存在論的転回なのです。@BeTakada

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

中立的形而上学、あるいは存在論的中立への転回(メタ存在論)というのは、フッサールは存在論的中立ではない、という批判です。キルケゴールの単独者とブーバーの我と汝と同様、フッサールでは根源規定は自我です。@BeTakada

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

なお、丸山文隆氏が中心的に解釈しているGA26-196-202 ライプニッツ講義の補論=転回 を訳注含めてPDFにしておきました。bit.ly/1li8kdn その前後がないと、意味不明な文面なのですが、問題になるのはGA26-199です。@BeTakada

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posted at 19:04:50

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

しかし、やはりこの我々=社会的規約以前に中立であること、というのが超越を生起と語る方法ということなのでしょう。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada

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posted at 19:42:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

そうですね、存在論的中立は、デカルトの不徹底で覆われたものですね。しかし、存在論的中立によって析出される世界や超越による生起を、エゴイズムと誤解するのは旧来の形而上学である実在論に属する独我論だ、という箇所です。@BeTakada twitter.com/BeTakada/statu...

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posted at 22:06:52

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

世界入場が出てくる、GA26-238-252 twitter.com/sunamajiri/sta... は、単に実存に対して中立であることが存在論的中立だという箇所で、それを誤解するのが単独者や我と汝関係だ、という自我論のくだらなさを列挙してる箇所です。@BeTakada

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posted at 22:10:43

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

それこそ、形而上学が旧来的だったデカルトの時代なら、それを払拭することが方法だったが、旧来性が払拭された以後、形而上学の地平から捉えないのは、超越を生起させる中立性を方法化しないことだ、ということですからね。要は中立化の方法なわけで。@BeTakada

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posted at 22:49:18

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

コギト・エルゴ・スムではレス(モノ)で、方法化=時間化しないというスピノザですら、ヘーゲル的には時間を空間化させてしまう。その不十分さは、むしろ形而上学的に捉えていないために、中立性の徹底が得られていないためだ、というような。@BeTakada

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posted at 22:56:01

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

GA26-238-252 をPDFにしました bit.ly/1MIQDcO が、面白い箇所ではない。単に中立的でない自我は非自己で、そんなことはつまらない話題なので、時間の方が面白いよ、といっているだけ。なお、世界入場は全集訳語では世界進入。@BeTakada

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

なお、GA26-241の我と汝は独我論であるは、GA25カント講義書でもtwitter.com/sunamajiri/sta... 現存在を生起する中立性を妨げるのがデカルト的不徹底の圏域の独我論だ、というのはフッサール批判まで一貫して続く。@BeTakada

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posted at 23:20:01

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

丸山文隆論文 www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf... が世界入場を取り上げているのは、逆からいうと、ということです。重要なのは、実存を生起させる方法の中立です。それはメタ存在論からしか得られないのです。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada

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posted at 23:24:41

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