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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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  • 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
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2015年11月06日(金)

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月6日

形而上学というのはハイデガーからは旧来のものだからね。しかし、その地平を明らかにすることこそ、旧来の形而上学が不徹底としたことで、旧来の形而上学から派生した主観客観という認識論では、その違いが分からない、というのが、ハイデガーの存在論でしょうね。@BeTakada

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posted at 07:02:31

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月6日

例えば、実存が事実的だから世界を得るでは、物体は延長だという非時間性と同じで、超越は先行関係に超出しない。その旧来性に対して、予め世界ー内ー存在が根本体制だから実存できるという言い方=言挙げの方がベターだという。@BeTakada pic.twitter.com/y52x1gNHVF

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posted at 08:43:00

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月6日

実存が先でもない。この予め=超出というのは、先天性とか、後天的に人間になる=育つ、というハイデガー以前の譬喩より根本体制で、人間は予め世界ー内ー存在だ、という。つまり、人間は予め人間だという。@BeTakada

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posted at 08:44:14

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月6日

言い換えると、超越を、非時間的な客観から、先行関係への超出と捉えると、事実的な実存に先行=時間的に超越した世界ー内ー存在という根本体制に突き当たる。世界ー内ー存在は志向性より時間的だ。超越とは非時間性を打ち破ることだ、といったような。@BeTakada

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posted at 08:44:52

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月6日

それはいい表現だね。ハイデガーが神を必要としないことを、方法として模索するのは、それに近いんだろうね。@inja650rr カントの場合は「神により与えられた権利」を保護しながら解説を試みたが、ハイデガーの場合は「神により与えられた権利」を解き明かしてしまう事を目的としたと解釈

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posted at 13:13:36

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月6日

つまり、デカルトの物体は延長だ、という方法が神を要請してしまうのに対して、神観念要請を不要化する方法自体を記述すると、予め人間であること、という根源的な先行関係に見えるようになり、そこからは世界=コスモス=人類の時間的有限が見える、ということらしい。@inja650rr

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posted at 13:21:10

2015年11月07日(土)

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月7日

どうしても根源規定を潜勢させたい、という誘惑が強いんでしょうね。ハイデガーが先学問性を学問的に言い当て、現存在である人間は予め世界内存在だという時、もはやあらゆる潜勢的規定(二元論)の動揺(葛藤)は消え去ったのに。@BeTakada ようやく形而下に置かれた根源規定まで腐敗対象に

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posted at 19:45:47

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月7日

あらゆることは規約(規則)だが、その規則では現勢は現勢なのです。それをどうしても潜勢(実体)と規定したい。言い換えれば、先学問的な自明性という誰もが共有するものを、学問が潜勢させてしまう。ハイデガーが存在論という時に問題になるのはそうした現勢でしょうね。@BeTakada

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posted at 19:49:08

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月7日

とくに日本では、先学問を学問するという学問論が、ハイデガーのように徹底できない。人間とは何か、それは誰でも先学問的に世界を有する現存在だ、ということだが、その先学問を学問する形而上学を見いだせない。@BeTakada 腐敗対象にしようとする思惑が透けて見えて来ます。今の日本も。

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posted at 19:57:24

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月7日

人間の形而下とはタブラ・ラサ(白紙)でないことだ。人間は誰もが世界を先学問的に持つ現存在の謂だからだ。それが根源規定であるのに、学問をしなければ人間になれないと、啓蒙主義の前に動揺してしまう。だから、ハイデガーは先学問を学問する最後の方法的懐疑を遂行している。@BeTakada

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posted at 19:59:57

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月7日

それが『カント書』第四章『回復における形而上学の根拠づけ』でなされる、人間とは何か、という問題なのよね。形而上学は先学問的に人間であること、という形而下を規定する根拠の学問だという。カントでは論理学に出てくる命題だけれど。@BeTakada

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posted at 20:01:33

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月7日

入院最終日の深夜、ハイデガー全集26ライプニッツ講義のカントの世界と自然の規定、つまり数学的と力学的の規定の箇所を何度も読み返していたけれど、結局、世界とはコスモスであり、コスモスとは人間のことなのよね。しかも世界観というように、イデアのように観ることではない。@BeTakada

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posted at 20:04:00

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月7日

イデアと善のイデアの違いの話にまで及んでいるけど、世界=コスモス=人間とは、イデアのように観ること=認識することの対象ではない、それが人間という根源規定だ、という非常に壮大な話から、自由の規定の話に至っていて、思わず寝付けなくなってしまったのだが(笑)。@BeTakada

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posted at 20:06:35

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月7日

日本の特異さに脇道それればだけれど、先学問的という人間の根源能力のようなものに、いわば疎さがあるよね。自信がないというか。つまり学問するまで真っサラ、という前提が横行している。そういうドグマを粉砕する話である学問論も、学問的方法ではない仏教の語彙で誤魔化す。@BeTakada

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posted at 23:16:28

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月7日

その言い方も違うんだけどね。いまから、テクストをスキャンして、後でアップしますので、まあ読んでみてください。@BeTakada 旧形而上学に因んで妄想として理性を働かせると人間はこの星の心身で有りコスモスにも成ります。

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posted at 23:18:07

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月7日

私が病院ベッドで寝れなくなった(テクスト的にややこしいという意味で)と言ったのは、GA26の226-229 bit.ly/1PuDaKR のカントの世界と自然。数学的と力学的が動力学的=超越論的にわからなくなる箇所だが~ @BeTakada

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posted at 23:51:19

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月7日

その前後の文脈 GA26-218-239 bit.ly/1LYsotS で、実存どころか実践より、世界や自由が先行=超越する、という先学問性は形而上学的(おそらく動力学的)にしか学問的方法=懐疑とならないという文脈。@BeTakada

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posted at 23:51:32

2015年11月08日(日)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

実存より先行=超越する世界=コスモスとは、自然のことというよりは、人間とはいかにして人間かという、現実存在のことだ、というのは、bit.ly/1LYsotS の前半。後半は善のイデアはイデア=観ること(直感~認識論)ではない、という話。@BeTakada

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posted at 00:10:13

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

GA26は通称ライプニッツ講義だが、ライプニッツの矛盾律は同一律=真理からすれば根拠律ですらない、という前半はつまらず、時間=超越という同一律=真理が、規則の根源規定だというのが、いわば『存在と時間』未完部分を補う『カント書』への序章部分。@BeTakada

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posted at 00:14:55

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

『カント書』は twitter.com/sunamajiri/sta... のとおり、カント『論理学』のいう第四テーゼ人間学を、人間とは何か(動力学?)ではなく、人間とはいかにして人間か、という超越や先学問性の根拠=根源規定を真理として与えるのだが、それの前哨部分。@BeTakada

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posted at 00:18:25

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

平たく言えば、人間を学問するまでマッサラ(タブラ・ラサ)と規定しないこと、つまり先学問性こそ超越ということなのだが、それ(超越)を時間の根源規定にすることを、真理だといっているのだが、そこにたどり着くまでが偉く大変なのだ。別に難しい話ではないのにね。@BeTakada

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posted at 00:20:47

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

なお、先学問性=超越の時間性、というライプニッツ講義~カント書に至るハイデガーの問題は、テクスチュアルには、東大の丸山文隆のテクスト研究 twitter.com/sunamajiri/sta... が、おそらく世界最先端だと思う。私はそれを平たく言い換えているだけなのだが。@BeTakada

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posted at 00:25:06

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

人間という世界は如何にか、というのが本来の形而上学で、人間とは何かというのは、近世の形而上学の覆いだ、というのはハイデガーがカント書に到るまで繰り返すことなのだが、昨日の箇所では画像。カント書第四章ではこれが書き換えられる。 pic.twitter.com/236VLiH3lZ

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posted at 13:37:39

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

人間は世界だからこそ、何かではなく如何にかだ、というハイデガーのカント批判は、カント書第四章で完成しているのだが、『カントの動力学の問題』の菊池健三だと、動力学はこの命題を度外視することだ、と扱うのでハイデガーと好対照。bit.ly/1iLVC5q

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posted at 13:42:07

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

そしてハイデガーの言う本来的形而上学というのは、人間とは何かという非本来的な問(ライプニッツ~バウムガルテンが覆い、カントが払拭できなかった問)に対して、人間は世界だから如何にかだ、という本来性のこと。ハイデガーはこればかり言う。 pic.twitter.com/cUZesmvEh6

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posted at 13:44:11

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

余談だが、だから端的に日本人が形而上学はダメだ、という言い方をするときの非本来の形而上学は、ハイデガーではライプニッツ~バウムガルテンが覆い、カントが払拭し切れなかったもののことを指すので、古代のことでも中世(神学)のことでもない。如何にを何かに変えてしまったことが非本来性。

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posted at 13:53:08

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

要は先学問性を学問論することだけが、方法的懐疑の不徹底を除去するという話なのだが、不徹底とか非本来性というのは、世界=如何にでしかない人間を、モノ(延長)のように何かと、と問う近代形而上学の堕落のこと。中世までは寧ろそれがなかった。bit.ly/1LYsotS

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posted at 14:15:59

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

ざっくりいうと、中世まではむしろ、人間という世界は、現勢のことで、潜勢を指していない。それがライプニッツ~バウムガルテンから潜勢を指してしまい、カントが潜勢を現勢に払拭できなかった、というのが厳密な意味でのハイデガーの非本来的形而上学という批判なのだ。

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posted at 14:16:13

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

要するに、デカルトの懐疑的不徹底である「延長」の形而上学性=眼前存在がハイデガーのいう非本来的形而上学。言い換えると心身二元論=潜勢性のこと。古代から中世までは世界=人間は現実存在のこと。カントでは「系列」に対する「現実存在の様態」に辛うじてなっているが、不徹底がある。

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posted at 14:16:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

現実存在を系列に対する様態にしたカントの不徹底が、このハイデガーによるGA26(ライプニッツ講義書)のカント批判の趣旨。bit.ly/1PuDaKR 『カント書』では図式論から、この問題がすべて払拭されている。つまり人間は何かではなく、如何にか=方法になる。

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posted at 14:16:53

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

要約すれば、人間は自ら世界というように、人間はモノのような対象ではなく方法であるのだが、デカルト~カントまでの方法的不徹底が、人間をモノ(霊魂や実体)に潜勢させてしまった。それを超越するのは如何なる方法か、とハイデガーは問うている。

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posted at 14:41:34

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

デカルト以後の形而上学の非本来化によって、最も顕著だったのが時間の眼前(直前)化、つまり対象時間化であり、そうした時間規定は根源的ではないので、テンポラリテート=存在者一般とか、存在者の全体の時間性が有限化せず、全体における存在者=被投性を企投できなくなる。

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posted at 14:44:11

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

カント書第四章(回復による形而上学の基礎づけ)とは、カントの人間とは何か、というデカルト的延長を払拭し、人間=世界とは如何にか、という根源時間(カント書第三章)に規定しなおす方法的遂行。時間を根源化しない方法は潜勢的だが、方法を現勢化する規定は根源時間だ、とされる。

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posted at 14:52:41

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月8日

世界内存在=超越が先行する=根源時間であることで、人間は方法=如何にかを、自由に遂行できるのだが、それは先学問性=超越や世界を、方法化=学問化すること。それは人間が何かではなく、方法=超越=世界内存在であり、タブラ・ラサではないということ。

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posted at 14:56:33

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