大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2016年02月23日(火)
重要なのは、アインシュタインはスピノザを必要としたが、ハイデガーにはそれがない、という哲学史(人の歴史)を観念化しないことです。それでは旧約聖書です。それはデカルトはアリストテレスを必要としないイデア論者だ、というのと同じで、何も捉えていないからです。@utubyou009
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posted at 01:14:38
哲学史的な問題としては、ハイデガー(現存在)というのは、いわばスピノザ(自己原因)いらずなのです。おそらく、デカルトの形而上学に対するスピノザを、史上初めて要請しないのがハイデガー、まるでモーセのように。twitter.com/sunamajiri/sta... @utubyou009
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posted at 00:52:11
面白いのは、アインシュタインはスピノザへの言及性でしかないのだが、ハイデガーはスピノザを回避して、ライプニッツから、フッサールの論理性である、ベルクソンのアインシュタイン批判である、時の持続という問題を批判する構図です。@utubyou009
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posted at 00:48:43
2016年02月21日(日)
時間=概念という図式では根源的ではないのでカントが退却している。ハイデガーは時間だけが非概念とすることで、範疇論に対して、図式論を根源化することに成功している、ということなのだ。@LitoSnowfield
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posted at 20:25:27
時間が概念になると神学になるのだ。しかし時間だけが概念化できないというハイデガーからみると、存在は神学的な問題ではない、ということなのだ。時間を概念=神学と捉えるのが根源なのか、時間は非概念=図式と捉えるのが根源図式なのか、という論争ねカント書は。@LitoSnowfield
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posted at 20:24:12
そこでいう図式というのは、時間は概念であるかどうか、ということ。カントでは時間が概念になってしまう(範疇論)。ハイデガーはそれをフッサールをも批判して、時間は概念ではないという(図式論)。このあたり。twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield
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posted at 20:23:27
昨日到達した所では、ハイデガーが退却を批判する、ということの内実はこれだよ。(^-^)/ twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield
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posted at 20:23:04
解答例「我を物(レスコギタンス)と思えたら、今まで周りが物に見えていなかったことに気づいてしまい、周りが物質文明として大いに発展した。そうした狂気を近代的自我という」wwww(^-^)/
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posted at 19:17:42
2016年02月20日(土)
範疇的直観によって、時間概念が隠蔽した図式性を発見しているのです。範疇論では、時間が超越論的規定であるという図式論から(批判視座が)退却してしまう。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada
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posted at 23:06:22
範疇的直観が出るのはGA21です。amzn.to/1OlADOo 時間は志向対象ではない=脱自であり、反省的対自のコギト(あるいはレスコギタンス)は純粋自我ではないということです。@BeTakada pic.twitter.com/BPrXvQ1lRv
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posted at 22:56:59
存在論は、形而上学を批判する観点(地平)のことです。そのために、真理も論理的同一律、つまり汎神論ではなく、伝統的論理学(存在証明)によって隠蔽される、死という有限性こそが真理だという論理学です。日本が困難であるのは、それが神のような真理に見えることでしょう。@utubyou009
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posted at 06:56:17
要するに、死という有限性の問題をはぐらかすな、という話なので、それは認識論の問題では無いのです。参考までに此方も御覧ください。twitter.com/sunamajiri/sta... その際存在論とは、形而上学を批判することだ、というのをお忘れなく。@utubyou009
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posted at 06:54:04
2016年02月18日(木)
アリストテレスを被解釈性とすれば、不動の動者は、神を静態化する静態的人間ではなく、現存在という動態的人間であり、デカルトを被解釈性とすれば、それは一種の誤謬推論だ、と解釈できるのです。ハイデガーはそうしたトランスクリティーク(超越論的批判性)を獲得しているというわけです。
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posted at 08:10:09
ハイデガーのカント批判も、図式性である超越論的時間規定を根源としないと、超越論的統覚が歪むということです。それはフッサールでは純粋自我であり、どちらもデカルト的な実体論です。柄谷が見誤っているのだが、ハイデガーこそ超越論的批判です。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 08:05:35
ハイデガーのフッサール批判というのは、純粋自我という自我一般など絵空事だというものです。それはアリストテレスの不動の動者は神のことではない、という現象学的解釈、つまりデカルト批判なのです。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada
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posted at 07:50:20
2016年02月17日(水)
私が丸山文隆の内的必然性論文で、ずっと問題にしているのはこの注釈。そこに領域的存在論説をとらない側として、この斎藤慶典氏が列挙されていて、それはフッサールからハイデガーの転回を自明化する誤謬、と理解しているのだが。@BeTakada pic.twitter.com/26TwfbQQ0b
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posted at 15:08:51
現象学的還元で思い出したが、ハイデガーのカント書でのカント批判を、フッサールの地盤から、平明に解説した本として、これは読んだ? 丸山文隆論文でも、この本ではないのだが、批判的に言及している注釈があるほどですす。www.amazon.co.jp/%E3%83%95%E3%8... @BeTakada
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posted at 15:07:52
そういえば、あのあたりの人たち、全て一般論にして喋るのよね。現象学的還元ができないというか。(^-^)/ pic.twitter.com/kByHnJRIsE
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posted at 14:58:11
2016年02月08日(月)
ところで、創文社全集外文書の、いわゆるナトルプ報告の第二部問題(アリストテレス形而上学第九章に対する解釈学的視点)はご一読でしょうか? 図式論(カント書)以前の第二部予告では、図式とは解釈学的状況でしかないですね。bit.ly/1L8HACp @BeTakada
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posted at 01:53:28
こうした多様に対する一はイデアではない、というハイデガーのいう自由の問題を、もう一度、先日の森一郎~斎藤元基twitter.com/sunamajiri/sta... のニーチェ~ハイデガーの、力の問題と、いわば綜合しないでは、またしても人間性に回収されそうですね。@BeTakada
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posted at 01:50:28
ハイデガーのいう根源図式からでしか、ファシズムに対する批判性が全く生まれてこない、というのは今の日本を見ていると痛感させられるのだが、GA33-72に、力の多様としての権力というのがありましたね。@BeTakada pic.twitter.com/PwwAM0sqP5
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posted at 01:32:07
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いま偶然TLにあった写真。ハイデガー全集31巻「人間的自由の本質について、カントの超越論的自由と実践的自由」講義がされた年の、ドイツの風景ww(^-^)/ twitter.com/historyinmomen... @BeTakada
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posted at 00:53:46
こうした背反しない当為を恐らく自由というのでしょうが、それは概念化しないことです。人は分かりやすいという時に図式的というのです。概念、つまり時間概念が覆ってしまうこと。そこから自由になることが、本来の目的論です。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada
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posted at 00:19:08