大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年05月01日(火)
和声学は絶対的真実を探る為の学問というより、教育目的で整備された学校的体系。「学校」という現場の中で生きている理論。現在のジャズも「学校」の中で、職業的教師によって伝えられる音楽に変わりつつある。クラシックには演奏家など殆ど存在せず、彼らの職業は教授、助教授。ジャズも今同じ道を…
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posted at 07:35:40
どうしても、音楽がレジャーとか趣味の方は、ツイッターでも音楽のお話をしたがるんですが、私は音楽はツイートしてるより、音楽してたほうが楽しいので、ツイッターは他のレジャー(読解とか)になっちゃうのです。でも音楽ネタは振られると、つい盛り上がります(^-^)/
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posted at 03:40:58
それと、フルートだからって、サックスも学ばなければならないということはないと思います。たしかにビッグバンドの仕事はサックスがメインになるのですが、やはりサックスからの持ち替えのフルートは、脇役というニュアンスです。
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posted at 03:23:41
他の楽器の方も、ピアノがサックスをコピーしたり、サックスがギターをコピーしたりするんです。フルートの人はそこが躓く人が多いのです。ぜひ、フルート以外のジャズを聴いてみてください。何をやればいいのかが見えてきますので。(^-^)/
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posted at 03:21:25
チャーリー・パーカーがジャズをモダンにして、アドリブを自由にした理論は、実践するととても単純です。しかしそれを西欧音楽の和声理論で説明すると、バルトークまで待たなければならないほど迂遠な説明になるというだけです。
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posted at 03:15:42
ジャズスタディーはいわゆるジャズコード理論と、スケールプラクティスです。ただバークリーメソッドのジャススタディーは8割以上がアレンジ(ヴォイシング理論)なので、アドリブに必要な考えは、ほんとは一日で教えることが可能です(覚えられるかは別にして)。だから背中一押しなのです。
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posted at 03:14:28
フルート以外の楽器でジャズは、背中ひと押しなので、フルートでそれができないはずはないのです。どうしてもリッチサウンド(詠嘆的に朗々と吹く)というクラシック奏法から抜け出すのが怖い楽器なのですが、ジャズスタディーをすれば、すぐにその恐怖が吹き飛びます。(^-^)/
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posted at 03:07:53
2012年04月30日(月)
100%は「死」だけ RT @arabian_m: センター国語の代表的な錯乱肢ですね RT @yutakioka: ゼロとか100%とか、必ず、常に、絶対的にという極端な言葉を好んで使う人は危険ですよね。そもそもゼロは多くの場合証明できないw。
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posted at 16:04:04
つねに流れてログを遡れないツイッターって、一年前二年前に去来した思考が、絶えず一貫してる西欧人向きね。寝るたびに物事の聖典性を忘れる人には向かない。(^-^)/
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posted at 14:15:35
それにしても今日偶然、お産をして赤ちゃんゲットする陣痛夢を、生まれてはじめてみてしまったのだけれど、私も表象に移行しはじめてるのかしら? つまり機械化したのかなー(・_・;)
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posted at 14:06:04
動物化というか、動物の機械化というか、なんでサンクチュアリでは、人間はマシンになりたがるんだろう。表象論も、超越論も、機械論ですらも、ただ単にエンジニアリングみたいに思えちゃうのが不思議。哲学工学。シナプス哲学。ヘーゲリアン的な他者の欲望も機械的反応だったりして(・_・;)
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posted at 13:42:17
宗教文化圏はフリーセックスしたがってるし、サンクチュアリは動物圏なのか、近代的自我から超越論的自我、平たく言えば産業まで動物化させたがってるし、人間の欲望はとどまるところを知らないねー。というか猿の惑星のテーゼそのもの(・_・;)
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posted at 13:32:56
最近、動物化する機械とか、動物化する理系とかが頻出しすぎる気がする。これも元を辿れば表象論的デカルトの自我を鵜呑みにした宗教サンクチュアリ日本だから?汗 QT: t.co/tqZLffz9
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posted at 13:16:57
非公開
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posted at xx:xx:xx
私は批判とか私見とかとは無縁で、いうとすれば、たとえばAさんの無神論は何が聖典(キャノン)なの?ぐらいなので、人畜無害です(^-^)/ @aoinatsunosora 笑
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posted at 02:08:49
おお、確かにその点は言えてますね。日本は宗教的にはサンクチュアリだ。ゼロから行ける。でもたいへんそうだなー、すぐ西欧かぶれが西欧かぶれじゃないつもりで反論しそう。@aoinatsunosora そうです。特定の宗教観に偏らない死生観の考察に、今の日本は向いていると思います。
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posted at 02:00:07
表象はかわいいけど、表象論者はキモい。ただそれだけだなー、私見するとすれば。でもこれ私見ではない気がする。私見って可能なのかが最近益々分からない(^-^)/
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posted at 01:13:49
しかし表象論者のいう自我というのは、気色が悪い。表象それ自体が爽やかに萌えられるのとは、対照的だ。表象論以外の論はどこかにないものなのだろうか?(^-^)/
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posted at 01:12:10
さらにデカルトにとっては、(國分によらないでも)無限=神という同義語ですが、神証明といえばカントを連想します。Wikiにもカントの神証明の類型がでてますね。カントは無限を神と同定してるんでしょうか? t.co/S0sFrKYk @femmelets
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posted at 01:02:12
ヘーゲルはむかし愛読してましたが、ことその無限の点からいうと、何か有意味なことを言ったようには思えていません。ところでカントは精読してませんが、無限をどう扱うのかご存知でしたらご教示を(^-^)/ @femmelets
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posted at 00:59:39
ただし、オイラー→リーマン以降は、無限は複素数、あるいは素数の無限性で、それは無限は有限の先にはない、ということらしいです。それは、たしかにデカルトの時代にはなかった知見なのでしょう。
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posted at 00:44:59
2012年04月29日(日)
(読書)國分235p 無限を単に否定して、表象だけに存在を見てしまうことに対して、スム(主体性)は、無限とは異なる、と無限の単独での自己原因を「肯定」すること。そのあたりがここでの自分用読書メモでした。(^-^)/
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posted at 20:41:26
(読書)このように、存在の自己原因としての無限(無限は有限の結果ではない)を否定するために、「より広大な」というアナロジーを表象論の主体とするデカルトに対して、スピノザは無限を無限という語義どおり有限と対比せずに肯定する。さもなければコギト(思惟する主体)は単に歪むからだ。
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posted at 20:32:56
(読書)しかし、無限という語義に存在を含めるかという証明は、肯定的起生原因(自分より広大なというアナロジー)が混入したことによって、自己原因(無限がそれ自体で存在すること)を証明できず、スピノザのような自己原因の肯定化に成功していない。つまりデカルトは自己原因を肯定できない。
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posted at 20:26:05
(読書)國分234-5p デカルトは、無限(という語義)に存在が直接「含まれる」=存在の自己原因は、「自分より広大」「無尽蔵な能力」という無限の本性を「含め」られないので否定的だという。そのために自分より広大で無尽蔵な無限だけが存在すると証明する。
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posted at 20:24:14
非常に素朴な疑問ですが、哲学が、数学や無限や神に取って替わるものとして、表象する自己を据え、その後、数学も神も、そうした存在論から捨象できた、というのが近代観、つまり転回や超越論なら、それが詭弁でない保証が気になるところです。どう考えたらよいのでしょうか? @femmelets
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posted at 16:50:28
たしかに数学そのものは語れないかもしれませんが、数学を数学によらず理解したり解説するものが全て詭弁というのは、至近でデカルトを数学と捉えたスピノザの解説を読んでたわけですが、断定できない気がします。むしろ数学とは別な存在を哲学する方に詭弁を感じます。RT @femmelets
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posted at 16:37:24