大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年04月28日(土)
科学という重荷を背負えない人が科学の教えるところを無視するのは自由である。しかし科学を細切れにして都合のいいところでは持ち出し、具合の悪いところでは無視するというわけにはいかない。なぜなら我々はそれができるほど賢くないからだ。
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2012年04月27日(金)
(読書)デカルトの外部者に存在させられる無限は、思惟によって存在させられる(つまり無限に対する外部者=思惟)だけでなく、第三者によって思惟を強いられた無限であるのは、第一証明の前提からも一貫して明らかだという。しかしスピノザはそれが誰とは問わず、ただデカルトの解説者に専念する。
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posted at 10:46:51
(読書)第二のア・ポステリオリな証明はスピノザによる前提の書き換えでアナロジーであると暴かれた。無限という字義は、人より広大というアナロジーではない。しかし無限をアナロジー(実在性の量)とすると、外部によって存在させられる無限、というデカルトの第二のア・ポステリオリな証明となる。
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posted at 10:31:31
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超越瞑想法(TM)やオウム真理教は、教養のある人々をたくさん引きつけ、中には物理学や工学の高い学位を持つ人たちさえいた。つまりその教義は、無知な大衆向けではないのである。そこには何か別のことが進行しているのだ。
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posted at 08:03:19
無限に外部者があるというのは、無限という語義と矛盾する。だから無限という語義はある、と捉えるのが、コギト(真の思惟)であり、スム(存在)は、コギトエルゴスム(偽の思惟)を原因としない。コギトエルゴスムは命題ではなく三段論法(小前提)だ、そんな話にまとめていいのかな?(・_・;)
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posted at 04:42:13
無限は有限のアナロジー(対比)であり、無限は有限のように存在させられ得る(デカルトの神精錬)。つまり無限の外部者がコギトエルゴスムだから無限は存在させられる、というデカルト的証明を、スピノザはそれは無限が予めないという思い込みであり、思惟(コギト)ではない、と証明しているようだ。
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posted at 04:36:38
無限をより大きなもの(アナロジーを証明)とすると、無限の外部者(他者原因)を想定してしまう。それがコギト・エルゴ・スムとすると、それは無限ではない、というスピノザの証明。
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posted at 04:23:22
超訳すると、無限は比較ではないのに、デカルトは「より大きなもの」と規定したために、無限も有限も外部の第三者によって存在させられていると証明してしまった。つまりデカルトにとってその外部がコギトなわけですが、スピノザはこのアナロジーの破綻を修復してコギトを書き直しエチカに至る・・・。
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posted at 04:07:29
たとえば、日本的近代は唐突にテクスト(西欧のテクスト性)を恣意的に解釈する主体になってしまった(権力を創造しようとしたのだから当然だ)。そのため諸々の反転が起こり、唯物論もそれ自体で存在するように見えただけだ。しかしそれは恣意的解釈に原因があるだけで、テクストに起源はない。
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posted at 03:44:04
もっと言えば、テクストとは破綻がないということだ。矛盾があればテクストとして成立しないからだ。破綻は存在できない。だから哲学者を唯物論か否かという命題自体がナンセンスだ。言い換えると、テクストの無破綻性を、恣意的に神格化するなど解釈するというのは、単に権力でしかない。
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posted at 03:41:30
その点で、哲学者は宗教者と差異があるというだけだ。哲学者はマルクスでなくても、テクストに忠実な唯物論者であるだけだ。恣意的解釈ができないから、それはテクストというだけだ。文学研究では聖典性(キャノン)という。そうしたテクスト性がないテクストは単にテクストではない。
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posted at 03:33:05
何度も断っておくが、無神論とか唯物論というのはテクスト論と同義のはずだ。書かれたものがすべて=唯物論、実在するテクストに後になって何か神格化を付け加える読み方(解釈)が、無神論に反する何かというだけで、原理的に考えても無神論それ自体が存在するとは誰も書いていないし書けないはずだ。
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posted at 03:28:46
心から自由になりたいt.co/f3MnQSQM そのために人はジャズに目覚めるだけなのだ。心を取り出して踏みつぶしてやりたい。いや他人の心を踏みにじるわけではない。他人は心であっていいのだ。自己の心は踏みつけたいww(^-^)/
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posted at 02:55:13
太鼓はなかなかうまく叩けない。習得しない者には何もない。だから最終的には言葉で神体験を補った。それが信仰というものであり、そもそも無神論というものがあるというのも矛盾に感じる。
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posted at 02:39:50
しかも、t.co/eIxrG3na 近代は信仰と無神論の対比を派生したが、そもそも世界は音楽的没頭ができるかできないか、でしかなかった。なかなか没頭できるものでないのが音楽だから、宗教が生まれた、という代償行為に思える。
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posted at 02:33:48
ところがやっぱりアフリカにはそもそもそういう囚われのなさ、つまりリズムがあるのよね。西欧はロマン派のようにメロディー(抑揚という表象)に感情(心)込めて、太鼓を止めてしまうから。そこから自由になること。つまり音楽が心から自由になること。
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posted at 02:26:48
アフリカはいいねといったが、ジャズに重要なのはオリジンではない。メロディーがフェイクされてラインになったり、そういう音楽の自由を総称すると、歴史的にジャズしか成し得なかったというだけ。
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posted at 02:25:21
2012年04月23日(月)
コギトは分析だが、神証明は総合=幾何学と言ったのはデカルトだ。幾何学とは定義から始まり定理にいたる書き方、つまり体系のことだ。しかしそのためには彼は表象論に陥る。ドゥルーズもそれに言及するが、スピノザだけが、分析VS総合を偽の対立項として触れず、コギトも幾何学で定理してしまう。
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posted at 01:00:11
ところで、スピノザ的國分は、それを解決と明言し、実際私も、表象論から超越論に至る哲学的転回、つまり矛盾の単なる解決にみえてしまう。しかし斉藤の『「われ思うのは誰か』t.co/Vft6ZjvU という本は、証明ではなく教養本のために自他論に陥っっていたのを思い出した。
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posted at 00:49:21
2012年04月22日(日)
(読書メモ)國分200p 眠いので短絡させると、デカルトの公理のままでは、くだらないやつを判別できず、幻覚や幻聴の病気になるぞ、とスピノザが心配してる、という話のようで。そう考えると眠れそうね、そろそろ寝支度(^-^)/
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posted at 01:47:32
(読書メモ)國分200p デカルトの公理順は偽なので、分かっていない人(観念)の実在性を問えない。つまりむしろ観念の共有を拒否している。それは思惟していないことだ。そんな文脈のようなのだが、いまいち眠いのでわけがわからん。考える故に眠いのではないが、眠い故に命題化が出ないw
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posted at 01:27:23
(読書メモ)國分200p 要約できないので敷衍すると、デカルトの公理順では、精神が原因の表象とは単に幻覚や幻聴ということになりかねない。しかし、それを整序すると、精神が実在(分かっている人)になり、分からなっていない人の観念への懐疑が生まれる、そんな話に一応見える。
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posted at 01:23:10
(読書メモ)國分200p このようにデカルトの真の順序で、スピノザがデカルトの公理を整序すると、表象が実在を表す心像(イメージ)から、観念(精神)を表す観念に、なってしまう。言い換えると、デカルトはそれを疑っていない。という話になる。
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posted at 01:14:47
(読書メモ)國分200p 表象はデカルトの公理の順では、知覚=映像が心像になることで、それに対して精神である観念は独立している。つまり懐疑していない。それに対してスピノザはそれを疑っている。という意味内容だろう。
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posted at 01:12:38
(読書メモ)國分200p したがって要約は意味ないが、スピノザは分かっている人と分かっていない人が実在してる。実在する人の観念は、外界が原因(つまり影響)ではない。にも拘らず、デカルトの公理の順では、こうした真の懐疑が隠蔽される、と言っているように思えた。
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posted at 01:10:45
(読書メモ)國分200p デカルトの公理の順では真の懐疑が不十分で、実体を表象するのは心像だけで、観念=精神は何らの表象ではない。スピノザがそれを真の順序にすると、観念は観念の表象でしかない、ということになる。つまり観念こそが表象される実体だ。この観念=実体は確かに分かりづらい。
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posted at 01:01:22
(読書メモ)國分186~200p デカルトを論じるスピノザと、そのスピノザを論じる國分で、用語法(概念布置)がめまぐるしく反転して対立項が捉えづらいしこの段落は錯綜しすぎているが、観念は実在の表象ではない、というスピノザに。 t.co/5HtimmNg
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posted at 00:34:44
さっきの音楽を他者として聴くこと、という@neojazz さんのスパルタレッスンみたいな高校国語のテスト問題のPDF t.co/KxS4YuSU 要は音楽が何であるか論じるのは空疎だが、音楽をどう共有するかは国語になっちゃう。@tampny
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posted at 00:17:28