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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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  • 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
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2016年04月17日(日)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月17日

大地震のように、人間が無力を思い知らされること。そうした告知によってはじめて論理という形式が与えられる(ハイデガーで告知とは、教会権力が思い知らされること)。それに引き換え、人間が万能とする形式論理学は、むしろ非論理である、といったような主張で、とりたてて大それたことでもない。

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posted at 04:17:34

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月17日

大地震というのは、カントですらある種の哲学的動機の一つになるほどだが、要するに人間が無力を思い知らされるということだから。単にデータという経験則を収集しても、それこそ主体的に気づかなければ有意味ではない。ハイデガーはそれを、パウロの時間論を引用して、告知された形式というのだが。

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posted at 04:12:26

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月17日

もちろん、カントにそれがあるわけではなく、カントの言う悟性(いわゆる理論)を、人間の万能な経験則のように独断する人達、新カント派のような人達の素朴実在論を批判してるだけなのだが、それほど人間は(データを)過信しやすい、ということなのだろう。

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posted at 04:06:01

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月17日

私が主題的に読んでいるハイデガーも一言で言うとそれね。経験則の方が、よほど独断だと言っていることになると思う。人間の経験則など、認識の原理として万能ですらない。それを過信した時に、見えなくなるものがある。そういう主張だといっても過言ではない気がする。@babachan5963

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posted at 03:33:57

2016年04月14日(木)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月14日

たしかに紙一重で、人間は有限だ身の程弁えろというと、外の無限が気になり始めるのだけれど、それが逆だといっているんだものね。外の無限なんか認識できっこないと身の程弁えると、あら不思議、いろんな呪縛から自由になって、ぴょんぴょんぴょんと。(^-^)/ @BeTakada

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posted at 20:25:08

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月14日

外の神に圧倒されて萎縮した有限というのが欠如態 twitter.com/sunamajiri/sta... で、そうした欠如や否定を真理前提することなく、存在了解の無限性を真理前提するというハイデガー以後に問える全体というのは、物理学の後=メタだけだからね。@BeTakada

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posted at 20:05:53

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月14日

こうして独断論に引き換えて、欠如態(つまり地平を含む問題全体の死角)が決定的に派生している、というわけだが、独断的形而上学、潜勢的形而上学が、こうした欠如態を派生するなら、現勢的形而上学を、図式としての時間である脱自態から再話すれば良い。つまり様相は範疇ではなく図式なのだろう。

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posted at 17:00:48

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月14日

ハイデガーはさかんに、可能態や現実態という様相は、アリストテレスにおいては範疇ではなく図式だという(GA33)。カントにおいても、時間は図式(超越論的規定)だが、それは様相を範疇化させるための規定とされてしまう。たぶんそのことだろう。

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posted at 17:00:33

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月14日

欠如態とは、問題全体に対する死角の捏造のことで、アリストテレスに欠如態を想定した、つまり神に対する人間の認識能力の有限を捏造したのは誰か、という犯人探しは生産的ではないが、カントにおいてそれがどのように決定的に起こったのかという話が、ハイデガーによれば生産的ということなのだろう。

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posted at 16:45:30

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月14日

たまたま、アクィナス bit.ly/1SwDOFx を読んでると、やはり欠如態がないという話になる。欠如態というのを私は潜勢と作業的に呼んでるが、ハイデガーによれば、欠如態が決定的に生じるのが、カントの独断的時間論だということになる。

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posted at 16:43:21

2016年04月13日(水)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月13日

通常、ハイデガーのカント批判(解説)よりカント本体の方が有益だというのは、この独断を捨てるために感性的時間を絶対視しているのを自明視した上で、カントの弁証論のいう純粋理性に対する批判とか、実践の自由とかが有益という話だが、ハイデガーはその土台となっている絶対時間を解体するからね。

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posted at 19:41:05

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月13日

絶対時間か相対時間かというのは、被造物であるか否か、というパースペクティブの話で、カントは意外と、被造物であるためには、という独断を捨てきれず絶対時間を語ってしまう(より厳密に言えば、独断を捨てるために絶対時間を語ってしまう)が、ハイデガーはそんなばかな、というだけだからね。

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posted at 19:36:23

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月13日

問題はやはり、カントが独断の微睡みから醒めてもなお、絶対時間の微睡みに燻った、われわれ=共同主観の真理前提、あるいは超越論的真理という、ハイデガーがカント書で立ち向かう問題なのは明白である。それは図式でしかないものを範疇と誤解した、カント独特のプロセスがあるということなのだろう。

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posted at 02:25:07

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月13日

私の作業概念でいえば、物理学(自然学)を絶対時間に独断させる潜勢的形而上学に対して、物理学が絶対時間という微睡みから醒めた後=メタとなる形而上学は、一元論的、現勢的形而上学といったところか。

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posted at 02:19:03

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月13日

フィジックのメタ(後)という形而上学は、それこそ近代以後は心霊現象か何かのように錯覚されてしまうのかもしれないが、むしろ物理学が錯覚から覚めた後(メタ)となる形而上学は、先存在論としての物理学を存在論にもたらす、といった構図でしかないので、いかがわしさがどこにもない。

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posted at 02:13:43

2016年04月12日(火)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月12日

哲学が時代遅れに見えるというのもおかしな話で、アリストテレスが問題としたような先措定から、一歩も先じていないが、物理学は絶対時間という思い込みから解放されたのだ。ハイデガーでは、それは先存在論という。しかしそうした先存在了解というのは、現代ではむしろ常識ですらある。

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posted at 21:35:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月12日

実際、ハイデガーはデカルトよりもカントよりも徹底したというだけにすぎない。それは隠者君の好きなデカルトの命題「よく隠れたるものはよく生きたるもの」つまり実践の自由、絶対的時間という思い込みからの自由というのは、現代ではむしろ物理学といわれているものであり、アタリマエのことなのだ。

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posted at 21:26:43

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月12日

両氏がいうデカルトというのは、書かれたものより思考が優先されるということだが、思考をそれ自体、モノ扱いしてよいのかというのは、デカルトというよりカント以後、とくにハイデガーでやり尽くされただけで、今更それを思考なのかどうか、と言うだけで、ドン引きする人が出てくる気がする。

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posted at 21:16:47

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月12日

中嶋・隠者両氏の対話 bit.ly/25WNUtk を見ていて思うのは、なぜカントの三批判書を読まないエクスキューズを言い募るのかという点と、カントの良質な解説者ハイデガーには名言は期待できないが、ハイデガー以後の名言をそれほど無視していいものかという点だな-。

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posted at 21:10:40

2016年04月11日(月)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月11日

やっぱり?(笑)たしかに、哲学か非哲学(ゾンビ)かというのは、ハイデガーの現存在か非現存在かと同じピクチャーだろうが、彼の場合、志向と言わず意識というから、非実在というね。非哲学とは哲学史のことだろうけど。@J_J_Kant pic.twitter.com/Ag7vbQMReS

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posted at 13:21:22

2016年04月08日(金)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月8日

なるほど。まあそれが述語論理学の限界ですからね。とくにあの前半の存在論の曖昧さからは、そうなるでしょう。しかしそれが永井さんの語りの面白さで、昨晩村上春樹の地の文を髣髴とさせると言ったが、それよりは面白いはずです。永井さん小説書けばいいのに。@BeTakada

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posted at 00:22:20

2016年04月07日(木)

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2016年04月06日(水)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月6日

実在性を問う=懐疑すること(独我論)を存在忘却、実在性を括弧に括ること(非独我論)を存在了解という前提が世界内存在だが、意識の独我論性の実在を問う=懐疑する存在忘却を時間というのも、タカ基地さんがいうように固有時を掌握してないからだろうね。なんだ知的レベルって。@BeTakada

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posted at 03:47:58

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月6日

彼は世界内存在を真理前提として捉えていない。独我論をどうしたらできるのか、という寂寥感を吐露しているだけ。そのために、マクタガートの固有時の問題が理解できていない。そんなに理解できていないから、科学との違いを語ってしまう。そんな違いがあるはずもないのに。@BeTakada

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posted at 01:23:07

2016年04月05日(火)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

存在論は、アリストテレスの形而上学が一般形而上学と神学に二重化したように、存在(実在性)を問うという存在忘却ではない。その意味で、カント書の最終節の最後の一文が、アリストテレスの「オンとは何か?」で終わるのよ。いわば存在論的転回。@LitoSnowfield

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posted at 21:24:09

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

それは、端的に、世界内存在や、内世界存在という、存在者の全体を、実在論的に証明しようとする観念論、ないしは特殊形而上学(神学)は、存在忘却だ、といっているのよ。だから、本来の存在論とは、実在性を括弧に入れた後でなされる論議なのよ。@LitoSnowfield

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posted at 21:15:37

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

あえて纏めると、カントのいう論理性である造物主と被造物の差異を度外視したヘーゲル論理学が存在忘却させたものが、存在論と存在の差異というハイデガー論理学なのよ。そう掌握すると、先存在論でしかないアリストテレスにはなかった存在了解が生じると主張してるのよ。@LitoSnowfield

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posted at 21:12:57

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

ハイデガーの語りが一番スムーズなのよ。しかしそれをスムーズと読み取るにはコツがあって、存在論は存在を問わない、という存在論的差異という図式性を視点にしておかないと、存在と存在論の違い、実存論と存在論の違いで、何を論理化しているのか、読みづらいのよ。@LitoSnowfield

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posted at 21:08:06

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

なにしろ、実在なんて実存から見れば屁でもない。存在論的差異というのは、文字通り存在証明のようなオンティッシュでは、存在論ではないということだから。実存を基礎にすれば、外部世界の実在の証明なんて、単なる戯言に聴こえるわけよ。@LitoSnowfield

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posted at 21:03:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

細川亮一カント書論の引用するGA25は、カントの論理性は造物主と非造物主の直観の違いで、この論理性を隠蔽するのがヘーゲルの論理性であり、その事態を了解できることをハイデガーは存在了解という、というあたり。www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%8... @LitoSnowfield

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posted at 03:20:46

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

いわば主張がそれほど単純なのに、それに矛盾して、端的に言い当てられない。だからヒトラーみたいのが出てきたんだろうな、と痛感するよ、まったく。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada

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posted at 02:22:06

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

ハイデガーの主張は単純で、告知されざる形式(数式)は形式ではないという告示による、真理(明証)とは、存在論的に真正に言挙げ=言い当てることだ、というものだが、自分が端的に言い当てられない。@BeTakada

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posted at 02:21:11

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

ハイデガーの他者論は独我論だという批判は、スリリングではあるのだが、参照範囲が広くて精神的に疲労するよね。もっと端的に言え、とか言いたくなるのだが。まあパズルを解くようで、暇つぶしにはもってこい。@BeTakada 瞼が重いので、ちょっとこの問題宿題にします。@BeTakada

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posted at 02:12:02

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

細川カント書論だと、端的に無限性とは神を無限とする認識ではなく、存在了解という無限な可能性のこと、つまりカントの超越論的真理と超越論的理念という問題だものね。このカント書の論点を見誤ると独我論になるんでしょう。@BeTakada pic.twitter.com/4p8ghGTrh3

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posted at 02:05:44

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

他者の問題というのは、デリダの神現前としてのハイデガー批判でもそうだが、ヘーゲル論理学の存在忘却です。カントにおいては論理学とは、造物主と非造物主の直観の仕方の違いの論理性のことで、それを見失うと他者と言い出すのです。それが独我論です。GA25では時間論です。@BeTakada

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posted at 01:49:12

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

今、細川亮一カント書論の、カント書最終節、存在と時間第一編最終節と第二編最終節の読み比べをしてるのだが、第一編最終節は、その点でも小気味良い纏めになっている。SZ222 @BeTakada pic.twitter.com/rkcCmlrMw2

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posted at 01:44:29

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

SZ43節aは、(自己の)外部世界はカントの言うとおり時間の規定を得るためにあるのであり、自己の現実存在の証明のためにあるのではない。実在性の証明は形式ではなく、頽落だという単純な主張です。@BeTakada

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posted at 01:42:27

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

違います、素朴実在論としての観念論は、方法の欠如態であり、頽落だという主張です。というのも~ @BeTakada

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posted at 01:41:07

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

というよりも、デカルト的要請の自我は、素朴実在論という、方法なき形而上学なんですよ。そのSZ43節a「外部世界が存在し証明されるのかという実在性批判」は、カントのこの時間規定の話です。bit.ly/25GP1xi @BeTakada

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posted at 01:31:11

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

全然無関連だが、たとえば中嶋氏が、こういうでしょ? twitter.com/J_J_Kant/statu... こういう論座も『存在と時間』公刊前半部最終節の手前のSZ208がカントの観念論論駁を補強して、退けてるでしょ?@BeTakada pic.twitter.com/pObPh82f4X

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posted at 01:12:44

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

私は中山康雄でマクタガートの問題は、あるいは基礎存在論の問題は、もはや度外視できていて、やはりカント書=メタ存在論の問題にいくんですけどね。どうしても彼らの独我論の話は、ハイデガーの言う単なる頽落に見えるのですよ。@BeTakada

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posted at 00:59:56

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

こうした、メタ存在論(存在論の存在論)の視座(全体的形而上学)から、はじめて先存在了解とか先現存在という、独我論的基礎存在論から自由になり、名付けるならば後存在了解に基礎づけられた、本来の有限性とか、本来の人間とかに出会えているという話になってるようなのだが。@BeTakada

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posted at 00:48:04

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

(続き)カント書は基礎存在論=一般形而上学ではなく、形而上学の総体というカントの超越論的弁証論の言う理念のことだ、という話なのだが。存在論の基礎を全て疑うと、部分や領域ではなく形而上学は全体に関わるという。@BeTakada

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posted at 00:47:28

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

もちろん、カント書のパースペクティブというのは、GA25で言挙げされてるように、カントの論理性は、創造主の直感と、非創造主の直観の差異のことで、それがアリストテレスの形而上学の二重性であり(続く)、@BeTakada

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posted at 00:38:17

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

私は引き続き、細川亮一のカント書論 twitter.com/sunamajiri/sta... を精査するのに日数がかかって精神的に辛い。とくにカント書最終節(45節)と、存在と時間第一部第一編最終節=44節と第二編最終節=83節を、純粋理性批判と読み比べてるのだが。@BeTakada

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posted at 00:35:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

ハイデガーが基礎存在論ではない、という命題が忘却されることが危険なのだと思うが、独我論の問題は、中山康雄のマクタガート批判が取り上げる、論考の独我論の要請性の却下で十分だろう。twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 00:22:49

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

ハイデガーを基礎存在論として読むと、どうしても弁証法が台頭して、マクタガート時間に頽落してしまう。だからこそ、ハイデガーはメタ存在論といっているのであって、それはウィトゲンシュタインが後期まで気づかないパースペクティブというだけだろう。

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posted at 00:15:19

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

ハイデガーとウィトゲンシュタインの何方が独我論か。ウィトゲンシュタインの独我論を、デカルト的要請として、ハイデガーから退けた時、マクタガートの時間論は、相対論と矛盾するニュートン時間だ、という中山康雄で十分な気がするが。twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 00:13:42

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

16年4月5日

おお、でたばかりか。入手します。(^-^)/ 存在と時間 ――哲学探究1 永井 均 www.amazon.co.jp/dp/4163904298/... 「時間の矛盾」を主張したマクタガートの議論を通じて、これまで覆い隠されてきた〈私〉と〈今〉をめぐる問題の核心に迫る。

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posted at 00:10:55

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