大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2014年03月17日(月)
この存在を本来化させるためには、途上で善のイデアの善性も脱意味化bit.ly/1nt58ea され、死どころか神が脱意味化される。そういう動性がいつまで続くかというと、それ自体は静的だ、というのが存在の解釈学になるんでしょうね。@estei_st 本来性への契機
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posted at 01:44:37
つまり実証科学は超能力なるものを意味化してしまうが、それはよく子供たちに、近代という転倒で、オカルトが意味化してしまった、と教えなければならなくなることと、ある意味同じなのだろう。こういう二元論的な意味化のようなものが転回対象なのだ、と直感出来る人は、限られるようだ。
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posted at 13:57:24
2014年03月18日(火)
このように、斎藤第五章自体がフロネーシス=配慮性の途上性だが、もちろん、善のイデアの認識論化を批判するための動態だ。眩しくて不可視の太陽=善のイデアを可視化させることで、ポイエーシス(被制作性)となる、としている。@estei_st pic.twitter.com/hbxDQjamkP
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posted at 13:38:10
勿論、神要請のことである認識論の超越論化すら、こうして「差し戻した」上で、善性の非意味化という途上では、まだ視覚的な現前性になる、ということですからね。こうした、声のような問題は、引用するほどでもないのですが。@estei_st pic.twitter.com/lctEOxCYLw
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posted at 15:34:23
「被制作性が被投性の契機となるのか」という予想が真偽に形式化されるのも当然ね。解釈学では「より前とより後」という比較級が動態となり、後続者の方がより真となる、ということだから。この真のために善まで認識論化された。@estei_st pic.twitter.com/hE2hzH2hD5
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posted at 18:36:05
2014年03月19日(水)
なかなかおもしろい(^-^)/「戦国時代キリシタンが日本に布教したのは、近代へ至るアクィナス~プラトン主義ではなく、スコラ学が折りわわせる前のアリストテレスの神の存在証明だった」twitter.com/kunisakamoto/s...
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posted at 03:03:47
まあ、スコラ~デカルトから現代哲学まで、すべてその打ち消しだからね。それが日本にだけ打ち消される前のバージョンが到来していたとは。「アリストテレスほどキリスト教ととりあわせが悪い哲学者はいない。世界にはじまりがある?―ありえない。神が世界に介入する?―それはお伽噺だ。」
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posted at 03:11:51
2014年03月20日(木)
斎藤氏が最終的に、詩作と存在了解の関係を、解釈学の現象学化の問題からどう位置づけることになるのかは、第三章の超越論的解釈学では、いわば神学に留まる理性を解体する告示の役割、とされたことからも予想がつきますね。@estei_st pic.twitter.com/3r0zjfTW21
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posted at 18:42:24
それを踏まえ、第六章ではニーチェをも神学者とすることを契機に脱神学化(ディルタイ解釈学の現象学化)される状況が解釈されますが、その最初にアフォリズムが検討されますね。今で言うツイッターのエアリプのようなものですな。bit.ly/1pe889K @estei_st
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posted at 18:50:45
もちろん、ディルタイの解釈学的循環bit.ly/1gCeg6z の批判ですが、このニーチェがニヒリズムと捉えたルターの謙抑を契機に、ハイデガーは解釈学に現象学の徳を接ぎ木できたようですね。bit.ly/1dfboSM @estei_st
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posted at 19:06:30
2014年03月21日(金)
でそ? さらに反神学者が売りのニーチェを、最も神学的とみなすハイデガーを、具体的に(内在的に)言い当てちゃったり、かなり痛快なのよ。キリスト教の奴隷道徳の謙抑をニーチェがルサンチマンとみなした、というのはマゾヒズムかなんかなんでしょ? あほよね@LitoSnowfield
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posted at 03:18:22
学部卒で社会人なんてフィクションやってて疑問に思ってないのは日本ぐらいだからなー。かなり低レベルなのだ。お話が盛り上がらないでしょ? 社会人を一旦、一斉に学校に戻せばいい。役人みたいな事務員なら資格だけで十分だろうけど、みんな役人になったら社会主義だ。@LitoSnowfield
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posted at 03:58:14
(続)まあ端的に、斎藤氏によると、ハイデガーがニーチェを神学に置いてきぼりできたのは、パウロ~ルターの奴隷道徳における謙抑というものを、ルサンチマンとするニーチェが、文中bit.ly/1dfboSM のとおり「道徳‥倫理的」すぎたため、ということらしい。
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posted at 04:28:08
しかし、後藤氏の小冊子より、斎藤氏の博論のほうが、却って(哲学史の)良質な解説書になってしまうのも、序文冒頭に真っ先にあるように「方法」的だからだろう。bit.ly/1hNwRPD (続く)@LitoSnowfield
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posted at 23:01:44
(続き)國分氏の『スピノザの方法』は(デカルトの)方法と方法論の循環論になっていたが、ハイデガーには、それを終結させる威力が確かに備わっているとして、しかしそれを「方法」と捉えないと、たしかに非常に「わかりづらい」。@LitoSnowfield
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posted at 23:07:17
(続き)つまり、後藤氏の小冊子は解説本だが、「方法」を「方法」とする分節化が、ほとんど明示的ではないために、存在了解という方法を解説してはいないのだが、斎藤氏の博論は冒頭から「方法」を分節化しているので、かえって解説書に近くなっているのだ。@LitoSnowfield
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posted at 23:16:34
序文が終わると一気に論証に着手で解説ではなくなるけど、所詮、神学から哲学を切り離す話でしか無いと思って読めば、なるほどそれが方法なのか、と読み進めることは容易だね。(^-^)/ @LitoSnowfield 手強そうな斎藤さんの巨本からの方が…掴みやすいとか
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posted at 23:22:49
(続き)このように、啓発本やマニュアル本は、実は手順すら分からせてくれないのだが(それを煙に巻くためにあるようなものだ)、いわば非マニュアル本は実は方法の伝授、つまり解説になってしまうという事態があり、それが分かるかどうかということなのだ。@LitoSnowfield
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posted at 23:25:35