大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2014年08月31日(日)
2014年08月29日(金)
「言葉は感情とは違う生き物だ、だから書く」という20年前の物語を回想する20年後谷川岳の衝立で、息子の代わりに親友の息子と登った主人公が足を踏み外し、息子が親父をいたわっていたという真実を知らされ、生きる気力を復活させるラストは詩的すぎる。@LitoSnowfield
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posted at 22:27:17
惨状を修羅場と仏教表現する紋切型は、漫画化のことでもあるんだろうね。小森陽一によると、紋切型~劇画化を相対化する描写力が、近代小説にはあるということになるんだが、だから小説読解が国語の問題であり続けているという。漫画読みをさせないためなんだろうね。@LitoSnowfield
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posted at 21:03:31
臭いよね。解釈をアップデートすると、命を紋切型で報道する父を、ネトウヨに匹敵する息子が許すオイディプスのアンチの設定は、映画版では出自などの深層の話を膨らませるほど、必然性が弱くなってしまい、紋切型のラストにしてしまった、ということのようね。@LitoSnowfield
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posted at 20:49:31
ゾルゲ(配慮)でも足らないのは、デカルトvsヒュームが示しているように、基礎づけ主義が生んでる循環だからね。しかし、欺かない神に対して、ヒュームの自然では神が欺きそうなだけなのだが。@Nuebsburg pic.twitter.com/zjeWuQPvqw
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posted at 02:24:42
ハイデガーのゾルゲでも循環が止まらないのは、カントが足らないからというのは、シュネーデルバッハも同意するとこだからね。@Nuebsburg 英米とか現象学とかフランクフルトとか色々読んでみたい欲望があるんだけど、今はやっぱりカント。 pic.twitter.com/lU6GMamAh4
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posted at 02:16:42
2014年08月28日(木)
シュネーデルバッハだと、最初の章の最後の、循環ないよー、という件ね(^-^)/ @Nuebsburg pic.twitter.com/uEeqJAN1mE
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posted at 11:49:16
ところで、慶応の学部の講義録、デカルトとヒュームの基礎付け主義phil.flet.keio.ac.jp/person/yosaku/... 病院に早目に着いたので十分ほど精読した。シュネーデルバッハよりは分かりやすい。@Nuebsburg pic.twitter.com/rB6QVG8tuY
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posted at 11:33:32
2014年08月27日(水)
「哲学的な」文字列を文法規則に従ってランダムに並べると、哲学者の多くはそれが「本物の哲学者」の書いたものなのか、ランダムなコンピュータの出力なのか、区別をつけることができない(理系の学問では、同様のことをすれば、区別をつけることができる)。
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posted at 22:47:29
言論的転回から、意識論的転回が表象を記号と心理に混同した、というディスクルズ混同の問題として批判している、と要約することができるかもしれないが、表象なども全部引っくり返ってしまった用法なので、それだけで要約しても、おそらく肝心なところが吹っ飛ぶ気がする。@Nuebsburg
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posted at 16:46:32
シュネーデルバッハの訳書、日本人が受け付けないらしくて、ネット古本屋で投げ売りされてるから、ぜひ本文にあたってみて。ディスクルズ混同を批判する彼の仕方を要約すると、それに近くなるが、何かが不十分。@Nuebsburg pic.twitter.com/kFz4K6HhyT
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posted at 16:40:44
非公開
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posted at xx:xx:xx
というより、表象という概念のディスクルズ混同的な転用が、混乱を助長しただけと(^-^)/ @Nuebsburg 言語は事態の写像ではない、ということですか? pic.twitter.com/C8b4qbj4Dx
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posted at 15:15:33
シュネーデルバッハの用語法でいうと、デカルト的懐疑=意識論的転回をディスクルズ混同すると言語論的転回ができないということになる。テアイテトスが援用されている。後書きの最後の「先行了解」は概念の混乱の排除のこと。@Nuebsburg pic.twitter.com/twisvKqSe0
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posted at 14:48:05
次頁がよい。ディスクルズ混同とは、スピノザがデカルトの方法と方法論の混同を批判して言語論的転回を先駆した、と國分氏が結論したことと相同だが、循環が派生する世界の自明性は「デカルトが託したのとは」違う、という指摘。@Nuebsburg pic.twitter.com/D9ACvLggQv
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posted at 14:34:09
それが言語論的転回からヘーゲルとハイデガーのホーリズムを、カントに対するディスクルズ混同というシュネーデルバッハの指摘する状態。受験国語でも言語の背後を認識させない論理とするのと同じ。訳者後書きが要約になってる。bit.ly/1ASVdlv @Nuebsburg
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posted at 14:05:50
2014年08月25日(月)
言うまでもなく、オイディプス悲劇のような叙事詩を生み出すのは戦記なのです。クライマーズ・ハイでは、戦場を紋切型で表現するかどうか、という葛藤が詩になるんです。具体的には、命を紋切型で報道する父親を許す息子を父親が受け入れる詩が生まれるんです。@juntaro5656
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posted at 01:05:53
2014年08月24日(日)
クライマーズ・ハイは、命を紋切型で報道する新聞社の父を息子が許す物語。映画版ではドタバタ喜劇の末に息子に顔向けができなくなる、ネトウヨ解明譚になってしまった。「クライマーズ・ハイのオイディプス譚」 togetter.com/li/709278
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posted at 21:16:21
2014年08月23日(土)
そう、ドラマがないのが漫画なのだよ。あまちゃんのように漫画チックなヒロイズムは女子のアイドルの話しかない。しかし男子のドラマは漫画にはない。漫画と報道は紋切型で、そこにはドラマがないというのを、クライマーズ・ハイは意識的に突きつけてるね。@LitoSnowfield
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posted at 16:31:14
漫画的に、キャラと心理ドラマにしたら、あのラストはカットするしかない。日本の漫画の限界ね。さらに、報道でこそ紋切型になる日本の仏教観のようなものが、父と子を自縛霊のようにさせてしまい、その嘘っぱちな日本に背を向けると、父親になれる物語。@LitoSnowfield
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posted at 16:23:24
いやだから、キャラ読み心理読みが通用しない、何らかなメタレベルを持っている物語。命を紋切型で報道しなければ息子を失わず(原作~ドラマ版)、命を紋切型で報道すれば息子を失う(映画版)。お気づきのように映画版はネトウヨを生み出すような話。@LitoSnowfield 過去に囚われ自閉
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posted at 16:12:42
あまちゃんが劇画化させパロったように女子のヒロイン-ニズムは漫画的だが、男子の漫画的なヒロイズムでは、このラストが重くなりすぎて不可能になるんではないか? 映画も漫画タッチにして、ラストが消えた。おそらく日本の漫画はドラマツルギーが弱いのかもしれない。@LitoSnowfield
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posted at 15:59:09
坪内逍遥が近代とは仏教的に紋切型に表現しない小説にある、と自覚したように、命を仏教的に紋切型で表現するのが新聞なのか?という葛藤の物語なのだが、映画版では神崎が紋切型ではない生々しい表現と引き合えに命を失っている。ドラマ版ではそれがない代わりに、@LitoSnowfield
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posted at 15:11:13
ざっくりいくと、ドラマ版では、命を仏教的紋切型で報道する新聞社に異を唱えると記者生命を失くし、20年後息子と和解できる。映画版では、墜落犠牲者の遺書で記者生命を失くさず、20年後息子に会いに行っても、途中で引き返すラストになる。@LitoSnowfield
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posted at 14:02:26
日本の報道の問題、命を仏教的な紋切型で語ることと、それではいけないという表現の自由の問題が、主人公の出自や母親のリビドーといった深層の問題に呪縛させるか、そこからの呪縛から解脱するのか、と係る物語で、映画版では解脱できていない。@LitoSnowfield
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posted at 13:58:31
このように言語の深層やリビドーという紋切型では、背後のない現象という物語が未完化してしまう。この言語に深層はなく、あるのは治癒のようなものだけだ、というのは物語的にしか証明することができない。原作者はつねにそれを主題にするが、三島以降、クライマーズ・ハイは一つの完成形。
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posted at 10:59:24
ドラマ版で神崎が惨状を語らないのは放送コードの問題。しかし映画版では表現の自由で、惨状を生々しく台詞にできてしまった。その紋切型の政治小説では語れない惨状が、新聞社の部下を自殺させるのだが、そうした表現の自由が息子の許しや、それを受け入れる父親という悲劇の解消に直結できない。
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posted at 10:47:04
この戦場の惨状を報道する紋切型が報道する者の命を奪うという問題、小森陽一が坪内逍遥の小説神髄で日本の近代性の発生を、戦場を「修羅場」と仏教的に紋切型にする政治小説を批判し、戯作的な人情物への目覚めとして捉えたとおり。クライマーズ・ハイでは新聞社の問題として提示される。
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posted at 10:28:03
三島以降、ヘレニズム的な悲劇を、ヘブライズム的に解消する物語が、日本でも試行錯誤されるのだが、三島に言及するあまちゃんでは、女子の三代記で、悲劇が解消される物語が意図されていた。しかし、男子の場合は、誰かが犠牲になる。クライマーズ・ハイが死屍累々としているのもそのため。
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posted at 09:50:42
孤児がオイディプス悲劇を終わらせるという、現代ユダヤ文学の語法、ポール・オースターなどでお馴染みだが、これがどうやら日本では、クライマーズ・ハイで初めて実現したということのようだ。ドラマ版ではそれが誠実に描かれたのだが、映画版では深層暴露でオイディプス悲劇になり台無しにされた。
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posted at 09:35:28