大本薫 Kaoru Ohmoto
- いいね数 11,694/13,358
- フォロー 2,831 フォロワー 2,653 ツイート 290,630
- 現在地 東京 LA NY 茅ヶ崎 鹿児島
- Web http://www.sunamajiri.com/
- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2016年05月21日(土)
理想社版『物への問い』訳者解説、面白かった。同書はカント書の続編らしいが、やはり、存在と時間=基礎存在論では、デカルトの我に対する時間の根源性だが、それでは原則論とならず、我に規定を戻すことで、転回できるようになる、ということね。bit.ly/1TlqvhI
タグ:
posted at 18:59:55
続・ハイデガー読本の中で骨太なのは、さすがに現代の大御所・熊野純彦「コラム・ハイデガーとマルクス主義」。サルトルや廣松渉の弁証法や物象化論が、故郷喪失・グローバリゼーションという虚無をもたらし、マルクスとハイデガーにある共通の可能性を回避している、と喝破している。
タグ:
posted at 15:56:45
2016年05月20日(金)
その点でもレヴィナスのミスリードが万人受けするね。ハイデガーが死を一般化するのはカテゴリー誤謬だというわけだから。ハイデガーはアリストテレスではカテゴリーではない現実と可能をカテゴリーとしたカントを批判するために、死の可能性に言及するだけだが、死は可能性ではないと言い出したりね。
タグ:
posted at 18:43:41
たとえば、ハイデガー以外というと、フロイトでは、暴力ですら、自己が抑圧した無意識の捌け口で実行してしまうことだろうが、ハイデガーでは、カントの崇高と同じで、暴力とは他者が自己に対して発揮する威力のことでしかない。その違いは極めて大きい。
タグ:
posted at 12:48:04
ちなみに、《暴力》というと、いかにも自己が自発的にする行為のように連想してしまうのだが、そうではなく、他者が自己に《威力》を発揮することだからこそ、それを《暴力的だ》と概念化しているようなもので、それを見誤らなかったのが、歴史的にハイデガーだけだ、ということが問題なのだ。
タグ:
posted at 12:43:20
だとすれば逆に、《暴力》は単純に《他者の威力》と言い換えて差し支えないのだが、従来のハイデガー読解は、柄谷行人のトラクリにおいてもなお、こうした構想力というカントが怖気づいた問題系を、他者の威力と措定することに失敗しているのだ。
タグ:
posted at 12:35:08
なお、日本のカント翻訳は《暴力》を《威力》といわば意訳して転倒するのだが、それは暴力とは、まったき他者の存在のことであり、自己が振るう暴力の正反対の意味、つまり他者の威力のことだからなのだが。しかし、ハイデガー以後、それが存在論的暴力という論述の地平になっているということなのだ。
タグ:
posted at 12:31:54
ともあれ、今私が、 bit.ly/1TIiBcL で見立てようとしたのは、デリダ的に脱構築すると、ハイデガーのカント書の超越論的図式性だけが、脱構築されずに残る《まったき他者》という論旨。レヴィナスは見誤ってるのだが、ハイデガーを脱構築することはできない。
タグ:
posted at 12:27:56
2016年05月18日(水)
端的に、構想力(想像力)とは、思考(超越論する我)が、カントの言う総合判断をする際に、概念ではなく、時間を図式として作動させている様をいうのだが、それはカントが言うように空想や夢のことではない。それがハイデガーのカント論の発端。
タグ:
posted at 23:48:27
2016年05月16日(月)
さて、カントは如何に構想力から退却し、被制作性の存在論に陥り、そして如何に崇高により却って構想力を取り戻したのか。推論の図式根源を見ていかなければならない。twitter.com/sunamajiri/sta...
タグ:
posted at 09:19:34
初期ハイデガーが構想力によってカントの被制作性を暴露し、後期以後のカント論では、構想力が無問答になり物自体が問えるのも、範疇的直観、つまり志向性によって、図式の根源、つまり論争の根が明確化したからに過ぎない。人は何を論争しているのか見えない時、誤った誤謬推論に陥る。
タグ:
posted at 09:09:40
近代の存在論的な迷妄というのも、存在論という最も論争的なものの根底に、霊魂不滅という根源的願望があることが見えなくなったことでしかないのだろう。図式が見えなくなるというのは、そういう根源図式が見えなくなり、概念が何の話題だったかが意味不明(ある種の頽落)になることだから。
タグ:
posted at 09:02:10
唯物論は素朴なほどよいね。 セリーナへの手紙: スピノザ駁論 ジョン・トーランド www.amazon.co.jp/dp/4588010433/... 「運動は物質に本質的」とスピノザを批判。宗教的支配の源泉にある魂不滅説を習俗的原因から解明、自然哲学から非物質的存在を排除、宗教的恐怖を打破する。
タグ:
posted at 08:58:31
2016年05月15日(日)
タカ基地さん、判断力批判の崇高(内的時間を圧倒する時間地平)の予備知識は、ネット探すとこれでいいでしょ。detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_de... @BeTakada
タグ:
posted at 23:43:48
続・ハイデガー読本のカント書論が、判断力批判の美に対する崇高という、構想力=時間を圧倒する瞬間論になっていて、圧倒されてて、頭がくらくらしてきたから、寝よう(^-^)/
タグ:
posted at 22:57:57
2016年05月12日(木)
ちなみに個人的にこの数ヶ月立ち往生しているのは、その細川カント書論の注釈11の引用元(GA2-436)が探せていない点です。そのページ数は存在と時間公刊部最終節のはずだが、誤植かしらね? @estei_st pic.twitter.com/68iq3PLSOq
タグ:
posted at 21:34:52
真理前提(先措定)が、有限的な存在了解であることの内実なのだが、カントでは根源的直観=第一原因(造物神)が真理前提されているために、存在了解の無限性が起こらない、という細川カント書論も併読するとよいです。bit.ly/1pP4drO @estei_st
タグ:
posted at 21:29:38
「表象なくして魂は思惟しない」とは、フッサールのデカルトに対する範疇的直観の現象学だ、というハイデガーのテクストを、その解釈対象のアリストテレスの霊魂論とPDFにしておきました。bit.ly/1Okz7TN @estei_st
タグ:
posted at 21:28:57
世界内存在というのは、その外部の視点、デカルト的な対象などないよ、ということですからね。外とか存在者の全体に対する外部視点とか、魂の客体化、そういう真理前提は言葉遊び(潜勢)だよ、という。@estei_st pic.twitter.com/fVFuMDaEyz
タグ:
posted at 21:28:42
2016年05月11日(水)
そうであるよりは、twitter.com/ursprungbot/st... というように、ハイデガー的なパースペクティブでしか、現勢という事態としての芸術の生起は、把捉できないということなのでしょう。制作でも被制作でもないという。@estei_st
タグ:
posted at 23:26:36
ところで、たまたまTLに流れてきたのだが、こうした現勢という事態、あるいは芸術の生起を、このショーペンハウアー的な意味に解すると、文字通り潜勢としてのヨーロッパ文化になりかねない。彼らは制作してしまう。twitter.com/Schopen_bot/st... @estei_st
タグ:
posted at 23:25:41
私は二元論=潜勢に対して、現勢と用語化してるのだが、その定立はそういう先措定のことです。身体としての魂は、表象なくしては思考しない。bit.ly/1CdgQ4Z @estei_st pic.twitter.com/uFCqnhk0h0
タグ:
posted at 23:07:32
このように、公共性とは被制作性のことであり、ハイデガーはそれをいかに相対化したか。それがデカルト~ハイデガーを被制作性と一括りにする木田元的なハイデガー観で十分なのか、というのが興味ありますね。twitter.com/sunamajiri/sta... @estei_st
タグ:
posted at 03:25:42
それが、ハイデガーがカントではニーチェの被制作性すら見破れない、という木田元的ハイデガー観でしょう。たしかに、デカルト以後の公共性では、魂より死が公共的だが、被制作性もまたそこでいう公共性のことだから。@estei_st bit.ly/1TP4STP
タグ:
posted at 03:19:19