大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年02月17日(火)
このように、未読とか気付きとか、情報の流れのようなものは度外視できる。方法も要請のことであるので。ところで、リトさんが逸早く読みった、斎藤慶典の「超越論的還元と形相的還元の順序は絶対でない」について、もうちょっと読み取ってみる。まずは腹ごしらい。@LitoSnowfield
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posted at 21:46:48
とはいえ、実はリトさんは前期フッサールを上から目線でみるはず。というのも、未読といったが、コギトは因果のような無限遡行をしないこと、神観念の要請だ、ということに勘付いているので、今度は超越論性が何のことなのかをフッサールと共に考え始めてしまう。@LitoSnowfield
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posted at 21:36:37
つまり、デカルト~カントを未読であること、というのが非常に重要。未読である点で、リトさんが第一章までのフッサールなのだ。それで心的能力とか論理という問題が何のことだか分からない(還元できない)のだ。たぶん前期の彼に感情移入できるはず。@LitoSnowfield
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posted at 21:22:27
初期フッサールはカントどころかデカルトも未読。それである間違いを問題にしてしまう。数学が常に真理なのは、個体の経験的な心的能力なのか、それとも論理という理念なのか、という二者択一に陥るのだ。そういう問題として捉えない、というのが還元や超越論の問題系。@LitoSnowfield
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posted at 21:19:45
第一章はフッサールがカントも読んでおらず行き詰まる話。新カント派のナトルプが救いの手を差し伸べるもナトルプの「純粋自我」では還元という方法に至れない。そこでデカルトへ。つまりフッサールはコギトを知らなかったのだ。そのことで数学を問題にすると、という話。@LitoSnowfield
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posted at 21:14:07
斎藤慶典氏のフッサール、あえて話しの真ん中の第三章の立ち読みを薦めたけど、その後は冒頭から読んでる? よく書けてるね。ナトルプの純粋自我では方法論とならず、形相的還元の前に超越論的還元のためにデカルトへ、という辺まで、電子書籍でちらっと読んだが。@LitoSnowfield
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posted at 20:31:52
2015年02月16日(月)
原因論で事実問題と権利問題が未分化の混沌に戻る人達ね。発狂してるのでモンスターというのですww (^-^)/ @LitoSnowfield グルグル(無限遡行)で(*^o^)> 本当は“神なき地平”で良かったぁ〜となるのですが
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posted at 17:22:42
まったくねー。日本がデカルトの3つの神要請を回避しているだけならまだしも、西欧人も因果論に戻ったりしてますからね。非常にややこしいわけです。ww @LitoSnowfield 私達日本人は要請をスルーしているからですが、ややこしいことやっているなぁ〜と(笑) だからこそ誤読してし
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posted at 17:07:16
面白いでしょ? 心では権利問題だが事実問題(後の方に出てきます)として(意味の同一性は)あるだろう、という話です。永井の西田論でも西田も心的な権利を問題としない、という部分がありますよ。@LitoSnowfield pic.twitter.com/F0TiWVaqDJ
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posted at 16:58:32
斎藤慶典第3章の枢軸ですねそこ。勿論、心的能力では神観念要請による不純な超越論性、ということです。つまり心的VS超越論的。@LitoSnowfield この想像(構成)力は人間な心的のものじゃないというのは神様呼出し領域なのですか? pic.twitter.com/Mr2jOtiQSG
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posted at 16:45:58
それで、カント書について安部浩が、感性的直感に先じて対象があるのは、単なる触発ではないというんです。自然という多義語の先行性については、丸山文隆が最も厳密です。twitter.com/sunamajiri/sta... @jeanbeauty2 pic.twitter.com/okLWkUSkyk
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posted at 16:37:31
ハイデガーの転回を「反地動説的」とした中田光雄によれば、フッサールの「意味」は開始語で、だからハイデガーは「存在」というそうですね。いわば「ある」という度に(意味が)在るんです。新約に対する旧約みたいですが。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/m6LOto0nt9
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posted at 16:27:02
斎藤慶典第3章。形相的還元では虚無だが、超越論的には、意味しかないから在るようですね。すなわち現象しか意味としてない。観念のようなものももちろん無意味。@jeanbeauty2
bit.ly/1zhE1no pic.twitter.com/Y4Bv4lP6iq
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posted at 16:00:41
斎藤フッサール第三章は、数概念は心理学でないという、フレーゲに対するフッサールの形相的還元と超越論的還元の順序性から、カント書がカントが葬った構想力による同一性を回復するいわば超越論性の純化の話でしたね。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/E6H0WX9v6g
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posted at 08:02:22
RT @jeanbeauty2 フッサール起源への哲学、出てきました。書棚の奥に。そこでは、同一性を、中心に、話が進んでいました。まだ、ちゃんと読んでませんが。ばらばらのものを一つにする、二つのものの根底にある根。関心とか、簡単には言えなさそうですね。
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posted at 07:59:36
恒例のハイデガースタディーまとめ。ここで言われている論理的というのが、日本の一般的な感覚では、まず分かっていないことが多い。www.facebook.com/kaoru.ohmoto/p...
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posted at 05:42:01
悟性という宿痾を解体する現象学、その徹底がハイデガーによる払拭なのだが、悟性のようなものがなければ、その払拭は極めて不要なものだ。つまりハイデガーの読みづらさというのは、悟性がそもそも要請されていないのだから、当たり前なのだ。togetter.com/li/783702
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posted at 05:40:54
ハイデガーというと、どうしても払拭できない宿題になるのだが、逆にハイデガーが払拭させようとしているという読み方をしないと、どうにもならない。問題は私たちには払拭させる悟性のようなものがそもそもないとすれば、それを払拭させようとする文など読みようがない。@LitoSnowfield
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posted at 04:32:57
ちなみに、このカントがデカルト以上に明確化させたにも係わらず葬った想像力(構想力)が、具体的に何であるかについて、斎藤慶典のフッサール本第三章ほど、うまく捉えたものを他に見たことがない。みんなうやむやにしている。結論が恐ろしいのだが。@LitoSnowfield
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posted at 03:50:47
構想力とは非論理(非古典論理学)のことなのだ。しかしカントは思考を論理(悟性)に後退させたのだ。しかもそれはコギトからの後退でもある。カントはデカルトより構想力を捉えたのに、放棄したのだ。ハイデガーがやろうとしているのはその回復。@LitoSnowfield
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posted at 03:45:31
そのデカルト的要請によって、コギトから払拭された構想力という点を、回復するためには、どうしてもあの書き方になる。したがって、要請を受理していなければ、あの書き方に忠実である必要はない。むしろ上空飛翔的に、そんな要請は受けていないといえばいい。@LitoSnowfield
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posted at 03:33:18
ハイデガーのような書き方というのは、カントがデカルトの要請を誇張しなければ、必要にならないものだったのだ。私たちみたいにデカルトに要請されていない受け手には奇異なのだ。カントも確かに構想力を発見したのに、それを葬ったのだ。それほど要請力が強いのだ。@LitoSnowfield
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posted at 03:29:31
『存在と時間』では未完になるのも、カント用語で遂行しなかったからなのだ。カント用語なら上空飛翔的に、コギトは悟性じゃないぞ、と〈反論〉すればいいだけなのだが、現象学というのは上空飛翔しないことなので、『存在と時間』の書き方になるのだ。@LitoSnowfield
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posted at 03:19:17
『存在と時間』第二部の『カント書』は、余りにもカント馬鹿が多いので、カントの用語で解体を完遂してるね。さっき遂行しかけたけど、一文で上空飛翔できる(現象学はこの飛翔を禁じるのだが)。勿論、思惟は論理=悟性ではなく構想力の超越論性だということなのだが。@LitoSnowfield
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posted at 03:15:38
ハイデガーではなく、ハイデガリアンよ。ハイデガーをカントに戻す人達ね。カントに帰れが言えなくなったので、ハイデガーに帰れを、カントに帰れのことだと思う人達ね。鬱陶しいよねww(^-^)/ @LitoSnowfield
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posted at 03:04:43
脱線すると、それに対して、ハイデガー以降が性感帯論になるでしょう。まるで、見る側と見られる側の性感の違いの話ばかりになるよ。カント的だと見る論理と美学。ハイデガー以降は見ることに論理も美学もないから、感じれる、ということのようになってるといえる。@LitoSnowfield
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posted at 03:03:35
ハイデガリアンってカント化したい人達なんだろうね。うるさそうだから、ちょっと真面目に答えておくと、身体が感官触発として、他の触発より低級というのは、視覚が高級という対比だが、それに対してハイデガーは高級も低級もないだろ、とその部位では遂行してるね。@LitoSnowfield
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posted at 03:02:05
そうだよ。カントがヘルダーの言語起源論で、起源論を避けたのも、聴覚とか肉体を表す音楽を低級と布置したからよ。それはデカルトの最高神を要請するとコギトになるということに忠実すぎたから。スピノザ読めば分かる。(^-^)/ @LitoSnowfield
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posted at 02:02:48
シュレーバー症例の性転換症例で無意識を発見したフロイトを消化したからね、現代思想は性感帯の話しかしないよ。しかしハイデガーが身体論も免れたのは、twitter.com/sunamajiri/sta... の頁のこれ。@LitoSnowfield pic.twitter.com/w6mL6DdCyf
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posted at 01:54:04
ハイデガー~デリダで脱構築されてるから、フッサール~西田のような、ノエシス・ノエマという、ギリシャのノエイン(思考)とデカルトのコギトに対する反対語を手続き語として、要請されなくなってるからね。だいたい、もうそういうことは言わない。@LitoSnowfield
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posted at 01:50:26
ハイデガーはギリシャ語源学からドイツ語源学に転回して、デリダは脱構築というので、これを免れるのだが、西田もフッサールも、心理学主義とコギトの反対概念としてのノエマ・ノエシスという用語に縛られるよね。@LitoSnowfield pic.twitter.com/fQWdl0syec
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posted at 01:38:27
西田幾多郎と似て、フッサールは頭が悪すぎとか書いてあったねww(^-^)/ @LitoSnowfield 目次を見て笑ってしまいました(*^o^)> <頭のわるい 哲学書も最初の掴みがポイントなのですね pic.twitter.com/D1uizbD2yb
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posted at 01:34:45
だいたい、三年ぐらい前に私がツイッターでいうことといえば、現象学に端を発するカントdisの現代思想なんてものは、性感帯論しかやらないじゃないか、いやらしい、というツイートだけだったからな。それでだいぶ私はdisられたのだがww @LitoSnowfield
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posted at 01:15:37
黒沢さんが熊野訳文で糞食らえと参戦してきたから、ハイデガーとフッサール、つまり現象学をdisりまくる大会を今年は勃発させたいところだ(^-^)/ twitter.com/nckrx970/statu... @LitoSnowfield 現象学のいやらしい文章
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posted at 01:14:36
ちらっとツイートまとめ(^-^)/ ヨーロッパ人が日本の非論理に美をみるのは、カントの悟性~美学という呪縛の異化なのよ。
www.facebook.com/kaoru.ohmoto/p... @TKDOMO
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posted at 00:45:44