大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年03月09日(月)
知覚内容の総体に「物自体」という別の部分を対置するという人工的な対立を作りだしても、対立するもう一方の部分にはいかなる内容も与えることができない。なぜなら事物の特定の内容は、常に知覚内容の中から取り出すことができるだけだからだ。-自由の哲学-
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posted at 17:43:08
簡単にいえばマニュアルのように規則が与えられ、それを杓子定規で受け取ってしまう人に対して、事態や事象として言挙げする(把捉する)方法を心得ている者は、その規則を踏まえて融通が効いてしまうのだ。こういったことが日本には確かにあるのだ。@LitoSnowfield
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posted at 15:43:44
(アメリカからきた)私に興味深いのは、日本にだけ、これが分かる人と分からない人との格差が歴然とある、という事実なのだ。辻井さんが現象学は儒学に似ているといっていたが、おそらく漢文教育で事態や事象を言挙げする(言い当てる)ことが国語教育だからだろう。@LitoSnowfield
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posted at 15:42:13
つまり、ハイデガー以外の解説を読むのはもはや罪と思えるほどなのだ。そこを迂回すると必ずや、構想力に対する誤解に陥る。端的に主客で語り始め、カント的な実践すらおぼつかなくなってしまう。そういうのを杓子定規というのだ。@LitoSnowfield
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posted at 15:31:51
こういうのを現象学というのだ。こういったことをカント書的構想力の手前の『現象学の根本諸問題』の形相論の手前、第一部で極めて分かりやすい語り口で解説してくれるよ。こんな糞親切な語り手はハイデガーしかあり得ないだろう。それで木田元が分かったといったのだ。@LitoSnowfield
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posted at 15:29:48
ハイデガーはしきりに、理論的には自我という単語になるが、そんな理論より実践だ、と論証というスタイルで言い切るのだ。この言い当てに何があるかというと、理論とか規則では、振り回されて融通のきかない、つまり結局は自己の不在のようなことになるぞ、ということ。@LitoSnowfield
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posted at 15:17:47
規則に対する融通という某氏の例に引き寄せると、融通が効かないのは規則を読み切れない中途半端があるということなのだろう。その杓子定規では他人に不快を与えるし、規則に対する独断だから罪なのだ。読み切っていれば、規則など取るに足らない物に見えてくる。@LitoSnowfield
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posted at 15:17:28
つまり、読んでいないということがもはや罪なんだが、読んでいないというだけで、神以外の単語、たとえば自我だったり主観だったり、そういうったハイデガーが非概念と論証していくものが、一人歩きして概念であるように振る舞ってしまう。それで分からなくなるんだよ。@LitoSnowfield
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posted at 15:10:04
たとえば、文でなければ単語は「非概念だ」という言い方で、ハイデガーは「自我」という概念を否定する論証を遂行したりするが、それを辞書的な単語だけで受け取ると、何のことだかわからなくなる。それで、みんな主客という態勢に囚われて、融通が効かなくなるとかね。@LitoSnowfield
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posted at 15:07:34
単語で融通が効かない世の中だからね。それでハイデガー風を吹かせると、彼のように誤解されやすいのよ。少なくとも文でなければ意味をなさないことを、単語で語ったように受け取られてしまうのだ。神という単語なら万能だったのだろうが、構想力ではね。@LitoSnowfield
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posted at 15:03:32
2015年03月08日(日)
ははは、自然主義が私小説に閉塞してしまい、親近者のプライバシーを晒すのと、カント書にあるような(超越論的)構想力を、周囲に単なる融通と受け取らせる、というのも何処か非常に似ているんだろうね。twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield 私小説だった
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posted at 20:50:20
カント書の超越論的構想力を、巷のJCASTメディアが「融通」と言い換えていて、苦笑というか爆笑してしまった。ww (^-^)/ www.j-cast.com/2015/03/062297...
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posted at 17:23:40
まさか、巷のJCAST記事に、カント書の超越論的構想力が登場するとは思わなかったww さすがだなww (^-^)/ www.j-cast.com/2015/03/062297...
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posted at 17:20:29
「などと主張。車掌にも「教えることができなかった」とした。凡人には何が言いたいのかよく理解できない文章だ。芦田氏は、車掌が「融通が利かない」と言いたかったのかもしれないが、無理な主張に思える。」www.j-cast.com/2015/03/062297...
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posted at 17:13:39
はははww 「カントは、ルールが存在するということと、それに従ってルールが『適用される』こととの間には、千里の径庭(編注:けいてい=隔たり)があると指摘していた。その<間>を埋めるものを<構想力>とカントは呼んだが、構想力は『教えることができない』とも」
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posted at 17:12:31
表象というカントの用語を単なる代表象として受け取ってしまうことで起こった混乱があるということだよ。この問題はアリストテレスの昔から大問題だそうで、それを短絡するとオカルトになるのだ。@virusyana 誤読?
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posted at 15:03:57
ウーシアというのは、イデアに対する個物一般のことだけど、カントはそれを取り出しかけて、純粋理性批判第二版で尻込みして自然科学のようになってしまい、ハイデガーは純粋時間をウーシア、とする地平を切り開いた、という感じかしらね。@jeanbeauty2 ウーシアとしての時間の地平
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posted at 04:18:58
解釈とはこういった暴力のことだけど、ガダマーはハイデガーから時間を取り払ってしまったためか、ハーバーマスとデリダから攻撃されたね。超越論的時間規定は取り払えない何らかな証左だろう。@jeanbeauty2 ガダマーは、この地平という言葉を大切にしますね
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posted at 00:17:24
ちなみに、この高峯訳のカント純粋理性批判では、超越論的時間規定が、先天的時間規定となっているが、ハイデガーに比べて、フッサールの手前のカントでは、あまり超越論性をめぐる訳語の扱いが厳密でなくても困らないね。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/PoWreP2SPB
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posted at 00:14:56
カント書22節の議論は、カントの図式論のA143の実体をめぐってるわけだけど、ハイデガーはB185の超越論的時間規定を、カントが範疇化させたことを問題視しているね。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/cmXukYItbb
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posted at 00:13:22
2015年03月07日(土)
ちなみに、カント書第22節、常住不変の時間が範疇表を超えた純粋直感としてあるからこそ、変化の中での不変なもの、つまり眼前存在がある、というのを木場旧訳では「実体である」と意訳してるほどです。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/pHqVMybAif
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posted at 23:52:20
その辺りは、カント書 第22節 bit.ly/1BhLZ2W と、そこで語られたカントが回避したことへの結論としての、第35節 bit.ly/1wOBt4Q に明示的ですね。@jeanbeauty2 ウーシアとしての時間
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posted at 23:44:04
そうですね、ハイデガーがカント書でカントが語れなかったものとして語ったのがそれですよね。実体としての地平を齎す時間の数学化する空間からの奪還。それをハイデガーはカントへの暴力的解釈といいますね。@jeanbeauty2 bit.ly/1EVUweJ
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posted at 23:40:40
2015年03月05日(木)
『形式論理学と超越論的論理学』はハイデガーの『カント書』と同年の1929年。しかし未邦訳だったためか、たとえばカント書からフッサールの発生を再話しているような斎藤慶典の『フッサール起源への哲学』ですら、たしか一箇所しか言及がない。 pic.twitter.com/Qxim2AocwI
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posted at 20:55:04
そういえば思ったのだが、すでに約束の地に辿り着いた思考 twitter.com/sunamajiri/sta... と、ディアスポラのまま彷徨う思考の二種類があって、ハイデガーに反論した人達はみんな後者に見える、という感じはあるかも知れない。@mallarmean ユダヤ的なものへの疎さから
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posted at 16:28:38
そして、論破できてしまったのだから、もはやカント用語を重視してもはじまらないのです。だから言語新作をするなり、詩だけを問題にするのでしょう。それは秘教的(秘境でも同じか)でも私秘的ではなく、単に寄与でしかない。必当然に対する当然というか。@jeanbeauty2
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posted at 13:22:33
しかし、『カント書』は用語でいえば、言語新作を一切せず、カント用語で、純粋時間を全て奪還してるんです。『現象学の~』でハイデガーは「カントの問題、つまり哲学の問題」というのですが、カント用語で認識論を論破する必要はあった。@jeanbeauty2
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posted at 13:21:17
非カント用語を試みた『存在と時間』も、アンセルムス~アクィナス批判から、デカルト~バウムガルテンの用語で心理学をしてしまうカント用語の解体を以って始める『現象学の根本諸問題』(木田元が逆順になっているという)も、『カント書』からみれば破綻しているのです。@jeanbeauty2
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posted at 13:20:36
全くそのとおりで、秘教的と捉える側に曇り、被覆性があるんでしょう。たしかに詩論ばかりやるわけですが。寄与してるにすぎない。@jeanbeauty2 よく、後期という名の下、ハイデガーの思索は、秘教的、神秘的とか、言われますが、果たしてそのように、言えるのか、ということを感じます。
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posted at 13:01:00
鍵RT @jeanbeauty2 よく、後期という名の下、ハイデガーの思索は、秘教的、神秘的とか、言われますが、果たしてそのように、言えるのか、ということを感じます。
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posted at 12:58:13
カッシーラーは単に、神の創造主になれるほど、人間を能力的に無限と信じているだけです。論争が踏まえる書評で、ハイデガーに「時間ー内ー存在」のようだと酷評されるように、蓋然性の中を動き、偶然性という時間に直面し世界観を得られないだけです。@jeanbeauty2
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posted at 12:57:27
ダヴォース討論 bit.ly/1FQnACj をお読みなのか、返信に困るのだが、彼はその一点しか言っていないでしょう。@jeanbeauty2 カッシーラとの対談で、時間性の欠如を、指摘している、ふうはあるでしょうか。
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posted at 12:51:52
そうしたことを、何か「特殊」な、たとえば秘教的なこと、のように受け止めるべきではない(たとえばそれでは文化人類学のようになってしまうかもしれない)。そんな周縁を見下すような態度に必然性があるわけがない。そうした「一般性」に言及しているようなものです。@jeanbeauty2
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posted at 12:47:28
それだけに威力がある。たとえば、ハイデガーはカントの時代の心理学は古すぎて、つまり時間を踏まえていないから、認識論を語ってしまった。だがそれだけでは解釈は形式的告知を行えない、というディルタイの解釈学的循環の問題以降のことを語っている。@jeanbeauty2
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posted at 12:45:09
単に解釈学的転回というだけでは、また何か特殊な事と混乱する向きがありえるのだが、カント書というのは、いわば透明なんですよ。ある意味、今では誰でも当然のこととして踏まえている、その当然を、なんというか原理的に全て解明した、といったことであるに過ぎない。@jeanbeauty2
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posted at 12:37:56
的確な整理の仕方ですね。そうですよ。何か特殊なことが言われている、と受け止めることが問題ではない。ごく当たり前の態度が決定されたに過ぎない。つまり、極めて「一般的」なのでしょう。@jeanbeauty2 bit.ly/1EORSaw
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posted at 12:35:48
鍵RT @jeanbeauty2 認識から、理解、理解から、解釈、という転換を、辿っていると、思います。そして、ハイデガーは認識のなかの科学的認識は、もっとも、派生的だと、考えていたと、いうことですね。派生的な指摘は、存在と時間に、指摘が、ありますね。
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posted at 12:32:12
鍵RT @jeanbeauty2 伝統的存在論、形而上学の批判だけでなく、認識論の、批判をそのような狙いからしたのが、カント書になるのではないか、と思われます。カッシーラとの対談で、時間性の欠如を、指摘している、ふうはあるでしょうか。
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posted at 12:31:52
鍵RT @jeanbeauty2 時間性の概念の導入によって、認識論から、解釈学への転換というとになるんだと思います。存在と時間の企てには、そういう帰結か、ねらいか、あると思います。
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posted at 12:31:19
鍵RT @jeanbeauty2 理解に、時間性が、入ってくると、解釈になり、それまでの、認識論は、すべて、時間性をまったく、考慮していない、ということだろうとおもいます。
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posted at 12:30:47
そうだ、ハイデガーBOTするなら、『現象学の根本諸問題』なら140字で、さくさく金言がでるな。『存在と時間』は高田珠樹訳ですら、非カント用語なので、140字で区切ると何のことかさっぱりわからない文にみえるのだ。『現象学の根本諸問題』botたんやるか。@LitoSnowfield
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posted at 03:42:56
DM: たとえば「カントが根本で言おうとしているのは存在者は存在ではないということだ。それに対して現存在を知覚や意識という絶対的定立とし、存在を定立一般(相対的)とするカントの解釈は、単に多義的で不明瞭だ」とかいう。@LitoSnowfield
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posted at 03:25:54
DM: 「プラトンは純粋空間を扱う幾何学ですら、存在を扱う哲学に比べれば、夢を見ているようなものと言ったが、心理学も同じだ。古い心理学で夢を見ていただけのカントによって混乱した心理学が、夢の中に戻っただけだ」という感じ。@LitoSnowfield
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posted at 03:24:30
DM: 「カントは心理学で存在論に迫れると勘違いしたが、それは心理学が古かったからで、ディルタイの影響で生を問題にしても、結局心理学は非哲学という元の鞘に収まった。それを見下してもはじまらない。」とかいうね。@LitoSnowfield
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posted at 03:22:21
DM: つまり神の存在証明の失敗から逆順で話し始める。とはいえ、両書とも挫折破綻している。破綻の仕方が違うのだが。そのあらましを一番わかりやすく論証したのが丸山文隆の一連の論考と感じられる。そしてその破綻を解消したのが『カント書』。@LitoSnowfield
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posted at 03:21:35
DM: 心理学を見下すな、というのは『現象学の根本諸問題』の始め方ね。誰かのように見下したりはしない。木田元が『存在と時間』が『~諸問題』で分かったというのも、非カント用語から始める『存在と時間』に対して、逆に解体するためにカント用語から始めるからね。@LitoSnowfield
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posted at 03:20:43