大本薫 Kaoru Ohmoto
- いいね数 11,694/13,358
- フォロー 2,831 フォロワー 2,653 ツイート 290,630
- 現在地 東京 LA NY 茅ヶ崎 鹿児島
- Web http://www.sunamajiri.com/
- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年03月16日(月)
はっきりいって、いわば純粋原因としての神、無から有を変状として齎す原因というのは、アリストテレスが存在論を形而上学にしてしまったことから、キリスト教に至るまで偏在しているだけなのだが、そうした原因性そのものを、取り払うことが散文的にしか出来ない。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 23:48:18
存在という存在者との差異、つまり神という原因は思惟が齎すものだ。だからこそその無について目眩や嘔吐になってしまう。差異が変状を付加しない自存=自然だけが、思惟においても被投されるべきだ、という。twitter.com/sunamajiri/sta... @jeanbeauty2
タグ:
posted at 23:41:14
しかし、少なくとも先カント書どころか後カント書でさえ、ハイデガーは詩的というより、散文的に饒舌ですね。カント書の大意は、カントではアリストテレスが形而上学にしてしまった存在論を完全に取り戻せないということだけど、散文的にしか応戦できないんでしょうね。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 23:34:12
差異より理解が先行してるという話 twitter.com/sunamajiri/sta... まで、日本仏教では誤解されて、絶対的シニフィアンが宇宙に鳴り響いてるとか、あほなこというからな。どうしても理解より差異を先行させたい日本仏教。
タグ:
posted at 22:23:29
ハイデガーは、先カント書の『現象学の根本諸問題』を、カントの先純粋理性批判期の、有はレアールな述語ではない、というアンセルムスの神の存在証明批判から着手するのだが、「先純理」に対しては「先カント書」という言い方気に入った。先には先ね。
タグ:
posted at 21:44:19
理解というのは理論で考える、数学的に考えることなのだが、それではダメだというのは文字通り、時間に対する瞬発性のようなものが要求されるジャズのアドリブで、理論よりプレイのほうが先、の先取り。ハイデガーの時代は音楽はモダンジャズに飛び込んでないからね。@LitoSnowfield
タグ:
posted at 20:40:52
それを普通の言い方で言うと、思惟、つまり理解しようとするから神が想定されるが、飛び込んでやらかしたら、単に存在できる、というそういう極めて当たり前のことを話しているのだが、問題は神を考えてしまう、いわば人間の愚かさ、をどう批判するかということ。@LitoSnowfield
タグ:
posted at 20:38:08
つまり、普通の言い方で言うと、思惟など考えるから神が想定されるが、飛び込んでやらかしたら、単に存在できる、というそういう極めて当たり前のことを話しているのだが、問題は神を考えてしまう、いわば人間の愚かさ、をどう批判するかということ。@LitoSnowfield
タグ:
posted at 20:23:22
先カント書~カント書は、その企投から被投、あるいは被投することによる企投、という同時性(それをカント書では共通の根、超越論的時間規定、純粋時間と名付けるのだが)に行く話。つまり神がなくても自存するような話。@LitoSnowfield pic.twitter.com/YjgxUMbHyt
タグ:
posted at 20:21:37
存在者の存在というのは、現実性を現実化させる原因、不動の動者や神と呼ばれるものなのだが、それは思惟や知覚、つまり企投するから、そのように思える。しかし現実化=制作に被投すると、存在者が自己原因になってしまう。その話を永遠とやっているだけ。@LitoSnowfield
タグ:
posted at 20:14:17
よく、ハイデガーはプラトン主義に対してアリストテレス回帰だ、という人がいるのだが、おそらくもっと単純。陰謀論批判の方が、大量にRTしていた「不動の動者」とも通底する。bit.ly/1xrtMfC @LitoSnowfield
タグ:
posted at 20:00:13
存在と思惟は同じだ、というパルメニデスが、その後プラトン~アリストテレスで覆われてしまうことは、先カント書期のハイデガーでは散発的だが、後カント書期のハイデガーはそれに徹してしまう、といっても過言ではないのだろう。@LitoSnowfield
タグ:
posted at 19:55:28
お気づきのように、ハイデガー自身が詩とは対照的に散文のマックスで饒舌だからね。とはいえ、言いたいことは極めて単純。このパルメニデスの一節が、プラトン~アリストテレスによって覆われたことだから。@LitoSnowfield pic.twitter.com/LzZe8vxYxz
タグ:
posted at 19:53:40
詩人になりましたね(^-^)/ @jeanbeauty2 そして、無と無化も、そもそも、頽落、世人から、投企すると、世界が現れ無が消え、さらに、いや詩人の声に耳を傾けると、世界が。勝手な発言です。
タグ:
posted at 18:59:17
鍵RT @jeanbeauty2 ハイデガーは、無の前で震撼、キルケゴール的には目眩、そして無を無化したい、出来ないか、できるはず、出来た、そして、無と無化も、そもそも、頽落、世人から、投企すると、世界が現れ無が消え、さらに、いや詩人の声に耳を傾けると、世界が。勝手な発言です。
タグ:
posted at 18:57:34
『現象学の根本諸問題』は、存在が存在者に変状を与えない、つまり神は原因ではない、それは近代的反省の問題ではない、ということを巡って、被制作性と非知覚性の共通の根を、ひたすら現象学しますよね。カント書の超越論的時間規定という根までには至らないのだけど。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 05:08:43
私達はつい西欧というと古代から中世まで、無と言うより有の文化と勝手に思い込むのだけど、あれは何なのかね? 単純に存在論的差異、存在が被知覚物に現実性という変状を付加するのではなく、現存在が制作する以外は自己原因(自然)として直前にある、という差異の無。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 04:56:16
それこそカント書は無で嘔吐しませんね。存在は存在者に何者も付加しない。被制作性には、被知覚性のような他者原因=神はないからだ。つまり神とは無のことだと『~諸問題』でもエックハルトまで動員して捲し立てますよね。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/f208kzyqzh
タグ:
posted at 04:47:38
2015年03月15日(日)
古代においては知覚より構想力が能動的だが、カント的な転回では、企投性が強調された。それをサルトルなどは、企投=知覚に対する構想力の自発性といって無で嘔吐する。しかし、ハイデガーは『カント書』で構想力の(時間に対する)受動性=被投性に至るんでしょうね。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 04:48:27
ところで、『~諸問題』で、構想力が最初に言及されるのは、11節bでしたね。知覚にとってはモルペー(形態)だが、古代においてはエイドス(先形像)が能動で、それは構想力(パンタシア、ファンタシア)だ、という箇所。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/ZU43HFSbwq
タグ:
posted at 04:45:43
無を催す(サルトルの?)想像力は、なぜか知覚の受動に対して自発性のように語られることで嘔吐するのかもしれませんが、カント書のハイデガーでは構想力はまさに受動(被投)なんでしょうね。つまり企投を受動と捉える錯誤では、被投する構想力にならないという。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 04:43:05
2015年03月14日(土)
その『~諸問題』11節aの冒頭は、誰のことや?と、ダヴォース論争のカッシーラーが情念に憑かれそうだが、じつに爽快な気分に触れていますね。気分は嘔吐だけではなさそうです。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/xUtRkEZ9ba
タグ:
posted at 23:13:55
情念論(喜怒哀楽)から気分は面白いですよね。情念論ではスピノザの倫理学になってしまう。自己原因がカテゴリー直感になるためには、ハイデガーのようにトマス批判にいって、無がないことをカントに突きつけるしかない。そこでやっと情念から開放されるんですかね。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 23:04:38
無が絡むんですよね。夢と想像力を分けようとすると、実在性のなさ、を無と捉えてしまい、それが裏切られる度に、不安を通り越して嘔吐するという。ハイデガーがスコラ哲学とカントの比較で、無がないことばかりやりますね。pic.twitter.com/pkxEV05yWk @jeanbeauty2
タグ:
posted at 22:51:53
デカルトの情念論から気分論へ。サルトルはエポケーを実在性のないこと、知覚の受動に対する想像力の自発性と捉え、それが夢とは異なる美だ、といって嘔吐するんでしたか。@jeanbeauty2 投企が全く出来なくなった途端に、不気味な存在感のみが生起して嘔吐を引き起こすという、あれです。
タグ:
posted at 22:48:52
鍵RT @jeanbeauty2 常に可能態が、優先して、目的が、あらゆることに、癒着していて、無目的も、一時的に目的に包括されている。その目的から隅々まで了解が、なされている、そんな感じでしょうか。
タグ:
posted at 22:46:23
鍵RT @jeanbeauty2 その手元性が、何かの困った事態に遭遇して、別のものとして、あるいは何故ここにあるの?みたいに、存在が、露呈する、ということかもしれませんし、投企が、全く出来なくなった途端に、不気味な存在感のみが、生起して嘔吐を引き起こすという、あれです。
タグ:
posted at 22:45:57
もし現存在の存在理解が先行しているのでなければ、可能態(本質)と現実態(実存)という差異において、想像しただけの100万円の札束が、手許に到来しただけで本物の100万円に化けたりするんでしょう。夢物語ですね。bit.ly/1BDCeMK @jeanbeauty2
タグ:
posted at 15:24:20
こうしたハイデガーの言い方の例からも言えるように、あらゆる差異化より前に、存在了解が先行するということが想定されているような気がしますね。世界を理解することも、手許性として先行して現存在はそれに対して被投しているんでしょうから。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 15:04:01
しかし当然のことながら、本質を実存に現実化する(神による)創造など解明するわけがない。とはいえそれをカントのように自明化すると、現実性の認識論しかなくなる。それでは手許性という、本来の理解につながるものが、置き去りになると強調しますよね。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 15:00:00
ハイデガーはここで、デカルトが全面的に依拠しているスアレスとカントを比較してるわけだけれど、スアレスまでは現実性は、現実化=創造として自明化されていない。しかしカントはそれを自明化することで、手許性=制作性を語れなくなったといっていますね。@jeanbeauty2
タグ:
posted at 14:56:51
「制作する現存在」は『~諸問題』11節で、スコラ哲学と比較して、カントのレアリタースは、現実化=手許による制作、つまり創造を前提=自明化して、主観に対する作用=認識だけを語った、という件で概念化されますね。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/fqRSVJpYhk
タグ:
posted at 14:49:38
(存在論的)差異より(存在)理解が先行すると言ったのは、丸山文隆が喝破するような手許性としての理解のことでしょうね。制作する現存在という。heideggerforum.main.jp/ej8data/maruya... @jeanbeauty2 pic.twitter.com/9gmivoLLeD
タグ:
posted at 14:44:36
言表が先行する世界理解というと、これの先行関係のことですか? twitter.com/sunamajiri/sta... @jeanbeauty2 ハンマーが、重いと、語らなければ、ハンマーが重いという、世界理解は、存在しないということは、どうなのでしょう。
タグ:
posted at 14:16:34