大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2016年05月28日(土)
おお顕現したのか? ハイデガーのアリストテレスの現象学的解釈を持参して詣たい。ハイデガーの物への問いを、音読して鎮魂したい(^-^)/アリストテレスの墓を発見か ギリシャ www.cnn.co.jp/fringe/3508336... アリストテレスの墓が発見されたことが28日までに分かった。
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posted at 23:12:56
いやいや。お酒美味しそうですね。人間のふがいなさは、切ないんですよ。そんなこというと神の視点にたってしまうけれどね。ヒューマニストはそれを忘れてしまっている。その思い上がりが不確定要素や狂気になるのですから、いい迷惑です。(^-^)/ @doctor0621
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posted at 22:58:43
自然より人間の方が不確定要素という実感はその通り。核を含め自然現象を人間がコントロールできるなど思い上がりだといったハイデガー的な批判から逃げ出したヒューマニストの駆け込み寺がそういう社会科学だったのなら笑止。@doctor0621 bit.ly/1Vn1CSt
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posted at 22:49:57
ハイデガーの黙示録的方法は見取り図にすると意外と単純で、同一律が本来の真理や形式ではないのは、中世の神の存在証明(同一律)に対して、主観のうちにないものはすべて矛盾律だ、とするデカルトのコギト以後の数学では、同一律ではなく根拠律が形式や真理だ、という思考法。@pucatavaco
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posted at 09:51:42
覆いというのは、中世の造物主の存在証明のような形式主義どころか、近代以後は学校による論理学のことで、そういう学校教育という覆いを取り払うことを、真理と形式化する話ばかりしているからね。黙示録的なのだ。@pucatavaco
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posted at 09:42:26
そうそう、ハイデガーが明証したいことは至って単純で、真理は同一律ではなく、その同一律(学校的形式論理学)が覆い隠してしまう真実の覆いを取り払う=アレーテイヤのことだ、というわけだからね。黙示録も終末論ではなく、覆いを取り払うこと=預言だものね。@pucatavaco
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posted at 09:37:54
2016年05月27日(金)
タカ基地さん、中嶋先生の時間論の対話に乗ってあげて。bit.ly/1TYW3Vf 端的に、確率自体がパラレルワールドにあるのか、という話になっていってるように思えるのだが。むしろ不確定性に見える。@BeTakada @J_J_Kant
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posted at 02:24:41
2016年05月25日(水)
カテゴリー誤謬というが、イギリス経験論者が屁理屈こねて神の存在証明に戻りそうだから、カントがデカルトの立場からちょっと待ったと言ったのだが、そこでニュートンの永遠時間に依拠したので、ハイデガーがこれまたちょっと待ったといっただけの話。だから現代は単純な時代。@inja650rr
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posted at 20:28:45
文章を140字にすぼめるのでへんになったな。要するに、現代において、永遠時間と有限時間という、宗教の問題が加熱してしまう事態に立ち至っているというのは、じつはデカルト以後の哲学史的には寧ろ単純な事態だ、ということなのだが、もう一度ツイートし直すと・・・ @inja650rr
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posted at 20:28:31
カテゴリー誤謬は、デカルトに対してイギリス人が屁理屈こねて、神の存在証明に戻りそうだから、カントがちょっと待ったって言っただけだからね。ハイデガーは、そこでカントがニュートンの永遠時間に依拠したので、それまたちょっと待ったって言っただけだから、現代は単純よ。@inja650rr
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posted at 19:58:51
2016年05月24日(火)
中嶋さんとのチャット bit.ly/1YT7ZM8 ではないが、フランス人はドイツ人以上に回りくどいが、それでもこうした総括を語るメルロ=ポンティ-の語りの仕方は比較的端的だ。ハイデガーより総括的なほどだ。 pic.twitter.com/CKrEUR8YWT
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posted at 08:27:00
ちなみに続・ハイデガー読本のカント書論のように、時間とは判断力批判にある崇高、直感的総括であるならば、永遠を意識と捉えるのか、ある刹那の臨在(儚さのようなもの)を永遠と捉えるか、という2つの立場が仲良く対話をしているだけなので、事態はそれほど錯綜はしていない。それどころか単純だ。
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posted at 07:37:39
なお、今の要約のメイキングは、このチャットログ。bit.ly/1YT7ZM8 サルトルはハイデガーの構想力=時間を理解できずマルクス主義に意識の永遠を探してしまうが、ポンティは綜合によって永遠に無時間化することから、主体や意識を時間に取り戻そうとする。
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posted at 07:29:57
続・ハイデガー読本、サルトルとメルロ=ポンティ-。サルトルがハイデガーに挫折するのは、存在了解がデカルト的な意識というフッサール的な拘りを捨てているからだが、ハイデガーが通過してしまった身体性を、ポンティーがその拘りによって受け止める。そういうピンポンが小気味よく纏められた一編。
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posted at 07:29:38
2016年05月23日(月)
無時間=無限時間に対する時間(いわば有時間ないしは有限時間)は非歴史性であるという問題を、無問題=歴史化する懐疑的方法は存するか?というのが、言葉遊びにならないのが、ひも理論のような現代物理学というのも興味深いのだが、哲学的問いの方が遥かに深刻なのだろう。
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posted at 06:32:11
ひも理論ではないが、我思うという極点を措定してしまうと無という無限、つまり深淵と矛盾律となってしまうのだから、点の延長ではなく、時間という幅だとすれば有限や有、あるいは考える我(超越論的自我)を先措定できるが、今度は、時間(基礎存在論)=非歴史的となるということ。
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posted at 06:23:38
2016年05月22日(日)
先日ヒュームのカテゴリー誤謬と超越論的構想力の話がでた twitter.com/sunamajiri/sta... が、解説で近藤功が同じ示唆をしている。デカルトに対してカテゴリー誤謬しているのは、ヒュームなのかカントなのかハイデガーなのか。 pic.twitter.com/9l23SROxY5
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posted at 09:21:49
転回とは端的に非歴史的な現存在の時間=基礎存在論から、科学を歴史的に見るような歴史への転回のことだ、というのは理想社版の訳者解説が分かりやすい。つまり、図式的に自我より時間が根源になるのは、歴史を度外視しているということなのだ。 pic.twitter.com/7iTPd9AgU1
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posted at 08:38:12
ハイデガー読本の要約が分かりやすい。「コギトが主観にないものの言明を矛盾律とするが、カントの革命は矛盾律に代わる原則」を見立てたという要約。それをハイデガーが「図式論の成就としての原則論」(カッシーラ)としたのが転回だろう。 pic.twitter.com/NZbLUeDkjU
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posted at 08:32:32
たとえば、木田元的には、基礎存在論はカントの被制作性暴露だが、それだけではニーチェの被制作性暴露に転回できないということと、基礎存在論は自我に対する時間の図式的根源性を問題にするが、それだけでは西欧形而上学の被制作性暴露に達しないということは、同じことなんだろうね。
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posted at 08:21:32
カント書の図式論(自我より時間が根源的だ)は存在と時間(基礎存在論)のままで、原則論に達しない、という『物への問い』。訳者解説では、自我より時間こそ図式の規定根源だ、というだけでは転回が起こらない、というのが要約されていた。bit.ly/1TlqvhI
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posted at 08:20:02
2016年05月21日(土)
理想社版『物への問い』訳者解説、面白かった。同書はカント書の続編らしいが、やはり、存在と時間=基礎存在論では、デカルトの我に対する時間の根源性だが、それでは原則論とならず、我に規定を戻すことで、転回できるようになる、ということね。bit.ly/1TlqvhI
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posted at 18:59:55
続・ハイデガー読本の中で骨太なのは、さすがに現代の大御所・熊野純彦「コラム・ハイデガーとマルクス主義」。サルトルや廣松渉の弁証法や物象化論が、故郷喪失・グローバリゼーションという虚無をもたらし、マルクスとハイデガーにある共通の可能性を回避している、と喝破している。
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posted at 15:56:45
2016年05月20日(金)
その点でもレヴィナスのミスリードが万人受けするね。ハイデガーが死を一般化するのはカテゴリー誤謬だというわけだから。ハイデガーはアリストテレスではカテゴリーではない現実と可能をカテゴリーとしたカントを批判するために、死の可能性に言及するだけだが、死は可能性ではないと言い出したりね。
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posted at 18:43:41
たとえば、ハイデガー以外というと、フロイトでは、暴力ですら、自己が抑圧した無意識の捌け口で実行してしまうことだろうが、ハイデガーでは、カントの崇高と同じで、暴力とは他者が自己に対して発揮する威力のことでしかない。その違いは極めて大きい。
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posted at 12:48:04
ちなみに、《暴力》というと、いかにも自己が自発的にする行為のように連想してしまうのだが、そうではなく、他者が自己に《威力》を発揮することだからこそ、それを《暴力的だ》と概念化しているようなもので、それを見誤らなかったのが、歴史的にハイデガーだけだ、ということが問題なのだ。
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posted at 12:43:20
だとすれば逆に、《暴力》は単純に《他者の威力》と言い換えて差し支えないのだが、従来のハイデガー読解は、柄谷行人のトラクリにおいてもなお、こうした構想力というカントが怖気づいた問題系を、他者の威力と措定することに失敗しているのだ。
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posted at 12:35:08
なお、日本のカント翻訳は《暴力》を《威力》といわば意訳して転倒するのだが、それは暴力とは、まったき他者の存在のことであり、自己が振るう暴力の正反対の意味、つまり他者の威力のことだからなのだが。しかし、ハイデガー以後、それが存在論的暴力という論述の地平になっているということなのだ。
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posted at 12:31:54
ともあれ、今私が、 bit.ly/1TIiBcL で見立てようとしたのは、デリダ的に脱構築すると、ハイデガーのカント書の超越論的図式性だけが、脱構築されずに残る《まったき他者》という論旨。レヴィナスは見誤ってるのだが、ハイデガーを脱構築することはできない。
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posted at 12:27:56