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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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  • 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
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2014年03月19日(水)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月19日

まあ、スコラ~デカルトから現代哲学まで、すべてその打ち消しだからね。それが日本にだけ打ち消される前のバージョンが到来していたとは。「アリストテレスほどキリスト教ととりあわせが悪い哲学者はいない。世界にはじまりがある?―ありえない。神が世界に介入する?―それはお伽噺だ。」

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posted at 03:11:51

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月19日

なかなかおもしろい(^-^)/「戦国時代キリシタンが日本に布教したのは、近代へ至るアクィナス~プラトン主義ではなく、スコラ学が折りわわせる前のアリストテレスの神の存在証明だった」twitter.com/kunisakamoto/s...

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posted at 03:03:47

2014年03月18日(火)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月18日

「被制作性が被投性の契機となるのか」という予想が真偽に形式化されるのも当然ね。解釈学では「より前とより後」という比較級が動態となり、後続者の方がより真となる、ということだから。この真のために善まで認識論化された。@estei_st pic.twitter.com/hE2hzH2hD5

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posted at 18:36:05

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月18日

認識論的超越論では被制作的現前性になるが、被制作性から被投的非現前性を、つまり現象性を、形式的告示的解釈学なら動態とできるか、という予想をたててみる。形式言語だとすると無理な気もするのだが・・・ww(^-^)/ @estei_st

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posted at 16:45:22

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月18日

信仰とは異なり認識論では神要請となるが、超越論では神要請のままとなる、という話をしているのでしょう。それに対して解釈学では形式的告示をすれば、認識論や超越論のために神要請という被制作性に非本来化されることもない。おそらく、本来的に、ただ神があるといえばいい。@estei_st

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posted at 16:08:07

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月18日

引用するほどもないというのは、告示すれば解釈上は十二分だ、というほどのことでしょう。神要請するのでなく、告示をすればいい。それが形式的告示的解釈学と認識論の相克なのでしょう。@estei_st

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posted at 15:54:15

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月18日

本の発明以来、一冊の本=声でないと、携行性が悪いという聖書化願望に憑かれ、ネット時代にそれが解体しているだけですから、ハイデガーのような主著が未完で、あとは断片的講義録という分冊化は、斎藤氏のように一冊で纏めるしかない、ということであるに過ぎないのでしょう。@estei_st

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posted at 15:35:40

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月18日

勿論、神要請のことである認識論の超越論化すら、こうして「差し戻した」上で、善性の非意味化という途上では、まだ視覚的な現前性になる、ということですからね。こうした、声のような問題は、引用するほどでもないのですが。@estei_st pic.twitter.com/lctEOxCYLw

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posted at 15:34:23

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月18日

このように、斎藤第五章自体がフロネーシス=配慮性の途上性だが、もちろん、善のイデアの認識論化を批判するための動態だ。眩しくて不可視の太陽=善のイデアを可視化させることで、ポイエーシス(被制作性)となる、としている。@estei_st pic.twitter.com/hbxDQjamkP

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posted at 13:38:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月18日

斎藤第五章は、善も美も倫理も意味が漂白され、本来性も途上的だ、と論じられていると思うのだが、それはたとえばスピノザが神を非意味化し、その静態から倫理を動的に語るのとは対照的に、倫理を非本来性に静態化させることで、いわば他の動態を語るハイデガーを示唆するだけだ。@estei_st

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posted at 13:27:46

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月18日

しかし気になるのは、斎藤氏の第五章で触れられた善のイデアの認識論化だ。存在了解(あるいは存在理解)が非本来性に留まり、動態存在とならないという現象は、この善のイデアの認識論化が原因、というのが途上的フロネーシスの第五章。善のイデアの善性の非意味化のことだが。@estei_st

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posted at 02:33:29

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月18日

要するに思考がフリーズしない方法ということなのだが、それは何も、当たり前だが哲学部の人達のやる「哲学者論」でなくとも、たとえば受験生に小論文指導したり、エディターが原稿をみるときに、死んだ思考をどう生きかえらせるのか、という具体的な場合と全く同じことなのだ。@estei_st

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posted at 02:03:52

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月18日

神を証人にすることでしかない認識論のままだと、超越論でしか存在を動態とする存在論にならないということなんだろう。しかし解釈学が死を非意味化して、存在まで静態とできるなら、スピノザのQEDのように、もう別な話をしていても動態になりそう、ということなんだろうな。@estei_st

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posted at 01:54:33

2014年03月17日(月)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月17日

つまり実証科学は超能力なるものを意味化してしまうが、それはよく子供たちに、近代という転倒で、オカルトが意味化してしまった、と教えなければならなくなることと、ある意味同じなのだろう。こういう二元論的な意味化のようなものが転回対象なのだ、と直感出来る人は、限られるようだ。

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posted at 13:57:24

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月17日

スピノザだと、自己原因に存在の本性を含む証明終わりで、神が脱意味化されるから、認識論を脱して別な話をしている。幾何学が動性を発生させるのに対して、弁証法だと何でも神に行き着いて静態となってしまう。しかし解釈学にとっては存在も静態になってしまう。@estei_st

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posted at 01:55:34

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月17日

この存在を本来化させるためには、途上で善のイデアの善性も脱意味化bit.ly/1nt58ea され、死どころか神が脱意味化される。そういう動性がいつまで続くかというと、それ自体は静的だ、というのが存在の解釈学になるんでしょうね。@estei_st 本来性への契機

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posted at 01:44:37

2014年03月16日(日)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月16日

たとえば、合田正人の柄谷との対談の引用に触れましたが、どこか停滞感がある。終いには鶴見俊輔を吉本隆明と柄谷行人より優位におく「動性」となっていたのですが、動的にみえない。それに比すれば斎藤の語りはハイデガーのように劇的だ、となる。こういうことが問題なのでしょう。@estei_st

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posted at 22:27:29

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月16日

死にしてからが先駆性とされるのも、そうした不安云々という「不動の動者」ではないということですから、結局は、神と同じように、言葉の動性とできるか、ということに尽きるということでしょう。それは実践的でも有り非実践的でも有る。@estei_st 死の不安の章であえて一気に無効化する

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posted at 22:22:35

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月16日

あり得べき指弾とは、先程もツイートしましたが、言葉の静態だけでしょうからね。twitter.com/sunamajiri/sta... @estei_st

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posted at 22:13:08

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月16日

それが解釈学でしょうね。斎藤のフロネーシスでもある第五章では文中でも「途上」性が際立ちますね。次章はニーチェbit.ly/1e7muHf ですが、ここでも主著自体の未完成=非本来性を解釈学上の地平に据えようとしているようですね。@estei_st

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posted at 22:12:03

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月16日

まあ、言葉の停滞という問題は、神学になるか、神学を度外視しすぎるかのどちらかでしかないが、斎藤氏の動性(言葉の運動性)は、ハイデガーの存在静態まで言い当てるほどで、その次の章のニーチェでは、一般的な見方を打開して、いよいよ現存在の解釈学から、存在の解釈学を言い当てるらしいよ。

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posted at 20:43:30

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月16日

要は、その人間過信の方を払拭できないから、絶望したり、グローバリズムでどんどん衰弱したりという、ジャパンプロブレムになってきているだけで、それは取るに足らない問題にしか見えない。@J_J_Kant

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posted at 18:53:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月16日

どうも、日本人に信心があるとすると、人間の能力こそ「無限」だといった過信に過ぎない気がするのだが、現実にはそうではない。しかし、そこで絶望すること自体がナンセンスという問題のような気がしないでもない。@J_J_Kant

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posted at 18:51:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月16日

もっとも、ハイパーリンクというよりは、動性は、ハイデガーにとっては講義を含めた単旋律=リニアな時間なのでしょう。斎藤はそれをより時間化する語り方で、形式的とか超越論的とか実存論的とかいう術語を確定してくれていますね。@estei_st

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posted at 07:26:11

2014年03月15日(土)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月15日

人に還元する哲学者は下らないという話、死の先駆を時のなかの死とする吉本が都合よく引用されていたので、ちょっと思い出したのだが、もっと野暮ったい文体の会田ですら、鶴見をこう捉える。あほらしいけどね。 pic.twitter.com/Rcob4fCxCb

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posted at 23:30:08

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月15日

もっと簡単にいえば、転回は、私達は神の被造物なのか、それとも神は私達の共同存在の産物なのか、という問いでしかない。しかも問題なのは、そんなことを問うても仕方がない、ということの方にある。それしか問われておらず、しかもそれを問う事自体がナンセンスだ、という問い。@estei_st

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posted at 23:11:06

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月15日

転回しようとすればするほど、戻されてしまうという話なわけです。それはそもそも孕まれていたことだろう、ということですね。転回とは天動説になることですが、被制作性から自然的動者になることです。しかし、そうした存在論的差異の二重性は、転回しても戻されてしまう。@estei_st

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posted at 23:08:46

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月15日

どうでしょうね。人に還元はできない。哲学者が言えているかは問えない。超越論的に孕まれていたのかしか明らかにできない、ということのようですが、斎藤氏はハイデガーが如何に言えていないかを、的確に整理しているというのは事実ですね。@estei_st 斎藤さんの著作の良質な解説

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posted at 22:47:40

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月15日

日本人は信心しているだけなのに、それを実証と言いたがりますね。単に言い方の好悪の問題で、特殊な方言のようなものですが、信心を疑ってはいないのでしょう。だから実証がなかなかできなくなる。@estei_st 科学的な実証というものはどの層に含まれるか。もしかすると、西洋と日本とでは

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posted at 22:43:13

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月15日

あえて比較すると、超越論哲学の挙句、結局、哲学者を哲学するtwitter.com/sunamajiri/sta... という日本の哲学部の伝統に対して、アメリカの超越論が緩い哲学研究は、哲学者を対象とするより、アプリオリ問題を対象に思考しているところが違和感がない、ということなのかしらね。

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posted at 11:44:50

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月15日

アメリカの哲学部は、超越論でガチガチの日本と違って、こういう話ができるのかもね。たとえばカント~ハイデガーで、アリストテレス神学を自然学にエポケーするから、デカルトが特異点のようになるけど、アメリカそういうのなさそう。そこは面白い。twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 11:33:34

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月15日

とはいえ、この存在者の動性は隠蔽しておかないと不都合なことがある。斎藤氏のハイデガー批判も、ハイデガーがそれに至るために、対話・エロス・倫理を純化させ、独我論のようになったと指摘している。それをどう回収するのか、じっくり読んでワクワク感を持続中です。@estei_st

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posted at 06:22:33

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月15日

私が漠然と、ただし明確に一点だけ関心があるのは(それ以外どうでもいい)、ハイデガーがアリストテレスから抽出する自然動態存在者を看過すると、近代の重力の発見がギリシャ自然学を魔術と意味化して、予備校文章術の山本義隆氏に異端神学を語らせてしまう、ということだけです。@estei_st

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posted at 06:10:25

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

14年3月15日

(続)よくハイデガーを読んだことのない人に向かって、斎藤氏が批判するように近年の読みの中心だった実践哲学として啓蒙すると、受け取りが真逆になるというパラドクスのようなものを散見する気がするのだが、おそらく、そういう誤解の余地のない方法を提示しているようにみえる。@estei_st

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posted at 05:43:25

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